2019(令和元)年11月




「錯視」ということを、ご存知でしょうか。私たちの視覚情報は、目から入ってきて脳が処理します。ところが、その処理の過程で、脳が錯覚を起こす場合がある。これが「錯視」です。例えば下記の図を見てください。

 

 【図A】の中央の〇と、【図B】の中央の〇。実は、どちらも同じ大きさなのですが、【図A】の方が小さく見えます。周りを囲む●が大きいと、中央の〇は小さく感じてしまう。逆に、周りを囲む●が小さいと、大きく感じてしまうのです。
 これは視覚的な情報だけではなく、私たちが生きる上での受け止め方にも、同様のことが言えるのではないでしょうか。私たちは周りの環境や評価に惑わされ、自分自身を過小評価し、卑屈になることはありませんか。自分を過大評価し、傲慢にふるまうこともあるかもしれません。私たちは周りの環境や評価の影響から、逃れることはできないのですが、そこに流されて自分を見失ってはいないでしょうか。

 あるサラリーマンの方が、周囲の悪口を気にして悩んでいた時、オカマバーのママさんに、こんなアドバイスを受けたそうです。

「ちょっとショックなこと言うけどさ、あんたがどんだけ努力しても、あんたの悪口を言う人って必ず居るのよ。それ理解しないと、悪口言われたら自分が悪いと思って、悪口言う人の意見ばかり気にしちゃうわよ。それってさ、逆だと思わない?」

これは、オカマバーのママさんだからこその、味わい深い一言です。今でこそようやく市民権を得かけていますが、これまでの人生、周りの偏見に晒されながら、様々な思いや葛藤があったことでしょう。それをくぐり抜けての一言なのですから、重いはずです。




 私たちは、周りの意見、特に悪口ばかりを気にして、自分を見失ってはいないでしょうか。悪口を言う人は、必ずいます。なぜなら、完璧な人間なんていないのですから。しかし、褒めてくれる人も助けてくれる人も、必ずいるのです。にも関わらず、悪口ばかりを気にして卑屈になるのは、人にいじめられているのではありません。自分で自分をいじめているのです。

あるカウンセラーの方は、「人にいじめられるよりも、自分にいじめられる方が、ダメージは大きい」と指摘しておられました。人にいじめられても、逃げ場があれば何とかなりますが、自分にいじめられたなら、逃げ場はどこにもありません。
 周りの環境や評価に、私たちは影響を受けながら生きています。しかし、それに流され自分を見失わせるのは、どこまでも私の思いや判断なのです。私の思いとは、それほどいい加減なもの。だからこそ、私の思いを中心にものを見てはいけないというのが、仏教における大前提なのです。

 

金沢に真宗大谷派(東本願寺)の僧侶で、高光大船という先生がおられました。

「私はね、しゃばで、あんな温かい人に初めて会いました。何ともいえん温かい人で、そばにいくと、ホコホコしたものです。今でも先生は、私のおなかに生きとられます」

「みんなは先生を偉かったというけれど、先生は偉くないんです。先生は、私は私、あなたはあなたの境涯で、みんな大きな世界に一つにいるんだ、ということを発見なさった方です。先生も私も、だれもかも、みんな偉うないんです。このごろの人間は他人のことばっかりしゃべっとるけど、先生は自分を見るということを教えて下さった」

 こんな言葉が残っているほど、亡くなられた後も、多くの人たちから慕われた方だったようです。
 その高光先生のお寺に、ある時一人の女性が暗い顔で訪ねてこられました。その女性の顔を見るなり、高光先生はこう言われたそうです。

「いじめられてきたな。わしはお前さんをいじめた相手を知っておる」

「どうして私をいじめた人を知っているのですか」

「お前さんはお前さんにいじめられて来たのだ」

 他人の生き方ばかりを気にしているお前は、何者か。他を気にするのではなく、気にしている自分に気づかねばならない。まず問われるのは、自分自身の思いや生き方なのだと。

 私たちは、周りの環境や評価に影響を受けながらしか、生きることはできません。しかし、どんな人の言葉に耳を傾けるのか。それは、私の思いが決めることです。その思い自体が、実は阿弥陀様から問われているのだと、高光先生は教えられるのです。


奔放なる青春もあった。失意の底で泣いたこともある。時代の混迷にあてどなくただよっていた。裏切られ、捨てられ、生涯貧乏であった。恋もした。人一倍生きることに下手で、つまずきつまずき生きた人といえる。ただ大船は、生きることに真摯であった。ひたむきであった。自分に忠実であった。常に自分自身であろうとし、一切の虚飾をはぎとろうとした。
               (『直道の人―温かき仏者 高光大船―』松田章一)

 
 阿弥陀様に問われながら、真摯に、ひたむきに生きた人がいた。つまずきながらも、偏見や葛藤の中でも、精一杯生きた人がいた。そんな人たちの言葉にこそ、耳を傾けていきたいものです。■

 


高光大船