2019(平成31)年2月




 今月の言葉は、東井義雄先生の言葉です。東井先生は、小学校教師として教育に生涯を捧げられると共に、阿弥陀様のみ教えをよりどころとして、多くの詩や著作をのこされています。

 息子さんの突然の病いや、自らも癌に罹られるなど、東井先生が苦しい時期を過ごされていた頃のことです。どこから知られたのか、北海道の見知らぬ女性から、分厚い封書が届けられました。中に入っていたのは、「阿弥陀様や親鸞さまを頼りにし、私が信仰している仏様に尻を向けているから、仏罰が当たったのです。寺の住職という体面もあるでしょうが、そんなものは潔く振り捨てて、私が信仰している仏様に帰依すれば、災難はたちどころに消滅します。私が、自分の体験で申し上げているのです。間違いはありません」という趣旨の手紙でした。

 東井先生は、遠く離れた、会ったこともない他人のために、わざわざ分厚い手紙を送ってくださったことについてお礼を述べると共に、このような返事を送られました。


 「私は、半世紀以上も学校の教員を勤めてきましたが、勉強の出来ない、頭の悪い子を見捨てたり、/非行を重ねる子供を罰で脅したり、退学させたりする教員にだけはなりたくないと考えてきました。/学校へ来る楽しみを失っている子供には、つまずきの原因を確かめてそれを正し、分かる喜びを育ててやるのが教員の仕事だと考えてきました。教師に背き、非行を重ねている子供には、その子がそうしなければならないわけを確かめ、本当の生きがいに目覚めさせるのが、教員の仕事だと考えてきました。

私が、そのように考えざるを得なくなったのは、せっかく寺に生まれさせて頂きながら、如来さま(阿弥陀さま)に逆き、如来さまを謗る罪さえも犯してきた私を、如来さまは罰することもなさらず、見捨てることもなさらないばかりか、ひたすら生かし続けていて下さったからでした。気がついてみたら、逆いている真っ最中も、謗っている真っ最中も、私は、阿弥陀さまのお慈悲のどまんなかにいたのです。/私どもが、ただいま、大変つらく、きびしいことにであっているのは事実ですが、これは『仏罰』などではなく、私どもが長い間、知らず知らずの間に作ってきた『因(タネ)』や 『縁(条件)』によるもので、つつしんで、お受けするしかございません。それにつけましても『たとい罪業は深重なりとも、必ず救う』と呼んで下さる『阿弥陀さま』をいよいよ頼もしく、仰がせていただくばかりです。」(『仏の声を聞く』東井義雄)





阿弥陀如来とは、どのような仏様なのか。そして阿弥陀様の心をいただいた時に、どのように生きようとする歩みが生まれるのか。それを教えてくださる、とても大切なエピソードです。

阿弥陀如来という仏様は、背く者、逆らう者に罰を与えるような仏様ではありません。それどころか、見捨てず、寄り添い、願い続けていてくださる仏様なのです。だからといって、それに甘え、開き直るのは、阿弥陀様の心をいただくことにはならない。向けられている慈しみの心を、悲しみの心を味わっていく。そして、ささやかではあっても、阿弥陀様のように生きたいと、歩み出す。それが、阿弥陀様の心をいただくことなのだと、東井先生から教えられるのです。

とは言っても、阿弥陀様のように生きるなどということは、なかなかできるものではありません。しかし、「そうありたい」と一歩を踏み出した時、東井先生には見えてきた光があった。気づかされた世界があったのです。

 「やんちゃな子からはやんちゃな子の光
     おとなしい子からはおとなしい子の光…
     教室も 運動場も 光いっぱい」(「光いっぱい」東井義雄)


 


優秀な者を褒め、やんちゃな子には罰を与え、おとなしい子の気持ちを気づこうともしない生き方では、こんな光に出遇うことはできないでしょう。背く者を慈しみ、悲しみながら、寄り添いたいと思うからこそ、気づかされる世界なのです。

そして、それは同時に、自らの輝きにも気づかされていく歩みでもありました。

 「苦しみも悲しみも 自分の荷は 自分で背負って
         歩きぬかせてもらう わたしの人生だから」(東井義雄)

苦しみや悲しみの中にあっても、私の人生はここにしかない。どんな状況にあっても、自らの輝きを見失わない。そんな覚悟が感じられます。阿弥陀様の、温もりに満ちたみ手の中に包まれているという自覚が、こんなにも豊かな人生を開いていくのかと、驚かされます。


近頃は、間違いを犯した人に対し、厳罰を与え切り捨てていく風潮が、急激に広がっています。それは同時に、切り捨てられる恐怖、失敗できないという委縮も生み出してはいないでしょうか。叩かれないようにと、周りの目ばかりを気にし、場の空気に逆らえない。そうなると、自分を守ることが優先され、周囲への優しさや思いやりも、見失われてしまいます。

間違っても、つまずいても、背いても、見捨てることのない世界があるからこそ、自分の人生を受け止めることができる。やり直すこともできるし、優しくもなれる。自分の人生を、生き生きとしたものにし、周りの人々への優しいまなざしを生み出すのは、やはり温もりに包まれているという自覚なのです。

私たちは、共に阿弥陀様のみ手の中に、既にお慈悲のど真ん中にいるのです。気づいていようが、背いていようが。その事実に目覚めた時に、これまでの人生とは、まったく違う出遇いが開かれてくるのだと教えられるのです。

「拝まない者も、おがまれている  拝まないときも、おがまれている」(東井義雄) ■