2019(平成31)年3月




 

近頃は、「死んだら終わり」と考えている人が多い時代になりました。都会では「親の法事も七回忌まで勤めれば、もういいだろう」という人や、「一周忌か三回忌までで終わり」という人が増えているのだとか。仏教的な儀式を、無意味だと思う人が増えたからなのかもしれません。しかし一方では、「死んだら終わり」「生きているうちが花」、だから「死んだ人間は、もう関係がない」という、目に見える部分だけでしかものを考えない薄っぺらさも感じてしまいます。

目には見えなくても、私の人生は長い歴史とつながりの中で、今ここにあるのです。私の人生は、私だけのものではありません。亡き人を始めとした、多くの方々と共に歩んでいるのです。法事とは、亡き人の節目をご縁として、阿弥陀様の光に照らされる中で、いのちの事実に目覚めていく大切な時間なのです。それを安易に切り捨ててしまうと、自分のいのちの深さと重さも見失ってしまうのではないでしょうか。

 

金沢に真宗大谷派(東本願寺)の僧侶で、高光大船という先生がおられました。ある時、高光先生がお参りに行かれると、若い男性の方が不機嫌そうな顔で待っていました。

高光先生が「何か不機嫌になるようなことがあったのかね」と聞かれると、

「ご院家さん。実は私、今日休みでして。映画にでも行こうかと考え、出かけようとしたところ、じいちゃんに「今日はご院家さんがお参りに来られる日だから、仏縁に遇え。日頃遇っていないんだから」とつかまってしまい、こうして座っているのです。私の計画も台無しになって、それで不機嫌そうな顔をしているのです」と言うのです。

「まあ、そう言わずに。何か私に質問はないかね」

「ありません」

「まあまあ、そう言わんと、何かあるだろう」

「う〜ん。では、ご院家さん。仏法を一言でいうと、どういうことですか?」

何事についても、一言でいうというのは、とても難しいことです。私などは、とてもいえませんが、そこは高光先生、一味違います。

「仏法を一言でいうとな、それは…鉄砲の反対だ」

「鉄砲(テッポウ)の反対?私が聞いているのは、仏法(ブッポウ)です!」

「いいか、鉄砲は人を殺すだろう。仏法は人を生かすんだ」

「では、死んだばあちゃんを生き返らせるということですか」

「いやいや、そうではない。生かすのは、あんただ。あんたを生かすのが仏法だ」

「ご院家さん…、そんなことを言われても、私は生きています。仏法のお世話にならなくても、私は生きています」

すると高光先生は、こう言われたそうです。

「本当に、あんたは生きているのか。実は、一日一日死んでいるのではないのか」と。




 確かに、私たちは必ず死ぬわけですから、一日生きるということは、一日死に近づいているということです。その一日を、本当に生きているのか。ただ死につつある一日に、しているのではないか。そんな問いを、高光先生は突きつけられたのです。では、本当に生きるとは、どういうことなのでしょう。

近頃は、「どうせ人間死んだら終わりなんだから、自分のやりたいこと、好きなことをしたらいい」という世の中になりました。もちろん「後悔しない生き方を」という意味では大切なことなのかもしれませんが、その考え方が広がりどうなったのでしょうか。

自分のことしか考えない。自分の周りしか目に入らない。親の法事も一周忌か三回忌で終わり。近所つき合い、親戚つき合いは、面倒くさいからしない。地域のことも考えないし、嫌いなヤツ、面倒くさいヤツとは付き合わない。次の世代のことなんか、どうでもいい…。そんな「好き嫌い」「損得」ばかりを優先する、軽薄な生き方が広がってはいないでしょうか。まさに、親を殺し、周りを殺し、次の世代を殺し、自分はただ死んでいくだけの人生が…。

浄土真宗では、お念仏のみ教えをいただくものは、この世のいのち尽きたとき、阿弥陀如来のお浄土に往生して、仏様に成らせていただくといわれます。「往生」とは、困った時に「往生する」などと使われていますが、本当の意味は違うのです。

「往」とは往復の「往」ですから、「ゆく」という意味。つまり、「往きて生まれる」というのが本当の意味なのです。ただ、死んでいくのではない。また会える世界であるお浄土に、共に「往きて生まれる」人生を賜るのだということです。

だから…、
 またお浄土で会わなくてはならないのだから…、

「先に往った父ちゃん、母ちゃん、じいちゃん、ばあちゃんが悲しむような生き方はできないなぁ」とか、

「アイツはどうも合わないし、どうも好かん。でも考えたら、アイツともお浄土でまた会わないといかん。今度は行き違いも仲違いもない、仏様として出遇い直さないといかんのだから、あんまり酷いことはできんなぁ」とか、

「また次の世代の人たちとも会わなくてはならないのだから、大切なことを遺さないといけない。変なものは残せないなぁ」という生き方が開かれるのだと教えられるのです。

ところが最近は、「お浄土でまた会える」などを言うと、バカにする人も多い時代です。しかし、そんな世界をバカにして、周りを殺し、自分もただ死んでいく人生よりも、周りの人びとと共に、この人生精一杯生き抜かせてもらおうと生きる方が、よっぽど豊かだし、よっぽど尊いと思うのです。

そして「また、お浄土で会おうな」「お浄土で、あの人が待っていてくれる」と、この世のいのちを終えていくほうが、よっぽど素敵ではないでしょうか。

何より、次の世代の人たちに一年や二年で忘れられるよりも、「またお浄土で会おうな」と、共に生きてもらうほうが、よっぽどうれしいと思うのですが。

「死では終わらない人生を生きる」とは、自分の人生を、そして周りの人びとを、本当に生かす歩みなのです。そこには、時間的にも空間的にも、広大無辺際(果てしない広がり)の世界が広がっています。その広がりの中にこそ、この私の人生がある。いや私のいのちは、大きな広がりを持っているのだと教えられるのです。

仏法をよりどころとして、「死では終わらない人生を生きる」。それは、いのちの無限な広がりに目覚め、すべてのいのちを生かしていく営みなのです。■