2019(平成31)年4月




  

先日テレビで、フリーアナウンサーの古舘伊知郎さんが、「月を見て、美しいと思うあなたの心が美しい」という言葉を紹介しておられました。月の美しさを評価するのは、こちらの側だと思っていた私にとって、目から鱗が落ちたような気がしたのです。

例えば絵を見て感動する人は、その絵の素晴らしさを感じ、見抜く目があるということでしょう。ところが私などは「この絵って、何千万円もするの?」と、金額でしか絵を見ることができない、貧しい心と目しかありません。絵を見て美しいと感じる、そんな心こそが美しい。金額でしか判断できない、私の心がみすぼらしい。私の生きる態度が問われているようで、とても恥ずかしい思いがしました。

 

プロ野球ソフトバンクホークスに、今年高卒3年目の古谷優人くんという選手がいます。最速154kmを投げる、将来有望な左ピッチャーです。彼がドラフト2位で指名され、ホークスと契約した時の記事は、とても印象的なものでした。そのタイトルが、「妹に恩返ししたい」だったからです。「お姉さんに恩返ししたい」というのなら、何となく想像がつきます。お姉さんが大学進学を諦めて、弟のために苦しい家計を助けてくれたというストーリーを思い浮かべることができるでしょう。しかし、そうではありません。「妹に恩返ししたい」というのです。高校生の彼が、妹に恩返しをしたいとはどういうことなのだろうと、不思議に思いました。

彼の妹は、小児脳梗塞のため障害が残ってしまいました。古谷くんは最初の頃、どう接すればいいのかと戸惑ったそうです。彼は「小中学生のころは、障害者の人を見て、どっちかというと馬鹿にする人間だった」からです。しかし妹と接していく中で、自分の何かが変わっていきました。「困っている人を助けたいと思うようになった。妹という存在があったから、人間的に成長できた。投げるときは一番に福岡へ呼びたい」。お父さんも「そういうことを言ってくれるようになったことがうれしい」と目を細めたというのです。障害を持つ妹を、最初は恥ずかしく思っていた自分が、彼女と接していく中で成長できた。彼女のお陰だ。妹に恩返しをしたい。こう思えるって、凄くないですか。彼はとても素敵です。

小説家の吉川英治さんは、色紙を依頼されると「我以外者皆我師也(私以外のすべての人はみな、私を育ててくださる師である)」という言葉を書かれていたそうです。これは、吉川さんの周りに、よき師と仰ぐことができる素晴らしい人が多かったということではありません。どんな人からも何かを学びとっていこうとされる、吉川さんの生きる態度の素晴らしさが、表れている言葉なのです。同様に、妹が自分を育ててくれた恩人だと思える古谷くんも、また素晴らしいではありませんか。そう受け止めることができる、古谷君の心が美しいのでしょう。

 どんなに素晴らしい人が側にいても、素晴らしさに気づく心がとぼしければ、出遇いは成り立ちません。逆に、どんな人からでも学ぼうとする態度があれば、すべての人を師と仰ぐ出遇いが開かれる。大切なのは、こちら側の学ぶ姿勢や生きる態度なのだと教えられるのです。

 

お釈迦様の弟子に、阿難尊者という方がおられます。お釈迦様に付き従い、細々とした世話に心を尽くし、説法が始まれば常に座の先頭で一言も聞き漏らさない。しかも、それを全部覚えているという「多聞第一」と称される方でした。ところが熱心で記憶力が良いのにもかかわらず、仏弟子としては、あまり優秀ではなく、他のお弟子よりも悟りを得ることが遅かったと伝えられています。

その阿難尊者が、ある時お釈迦様に質問した場面が、『大無量寿経』の冒頭に描かれています。

「今日のお釈迦様は、体中が喜びに満ち溢れ、お顔が光り輝いておられますが、一体どうなさったのですか」と阿難が問うと、

「阿難よ。それは誰かに聞けと言われて問うたのか。それとも自分でそう感じたのか」と、お釈迦様は逆に問い返されます。

「いえ、自分が見たままのことを尋ねているだけなのですが」と阿難が答えると、お釈迦様は、このように言われました。

「まことに結構である。今問うたところは、非常に深い意味がある。お前の問いは一切の衆生を救う、そういう意味を持っている問いである」と。

阿難は、「どれだけ聞き、記憶したか」という知識を得ることにおいては、弟子の中で一番でした。しかしそれは、仏弟子としてはあまり意味あることではありませんでした。なぜなら阿難は、お釈迦様を偉い人「人間釈尊」として見ていただけで、仏様としての「仏陀釈尊」と出遇っていたわけではなかったからです。

いつも「仏陀釈尊」は、阿難尊者に呼びかけておられました。「この尊い法に、気づいてくれよ。この心に目覚めてくれよ」と。しかし受け取る側の阿難は、言葉だけを懸命に聴き、知識としては覚えていました。もしかすると、得た知識の量を誇り、慢心していたのかもしれません。

ところが、阿難は釈尊の様子がいつもと違うと感じたのです。それは、お釈迦様が違ったのではありません。いつもと違ったのは、阿難の方だったのです。これまで気づかなかった、お釈迦様の本当の呼びかけに、ようやく気づくことができた。しかもその気づきは、阿難のこれまでの努力が積み重なり、ようやく開かれたものではありません。ただ、気づいただけだったのです。いつも呼びかけられていた教えに、照らされていた光に、すでに届けられていた心に、ただ気づいただけだった。仏様との出遇いは、このような形で実現するのだと、『大無量寿経』には示されているのです。

いつも顔をつき合わせていても、出遇っているとは限りません。お釈迦様と一緒にいても、それが仏様と出遇うということにはならないのです。教えは、すべての衆生(生きとし生けるもの)に開かれていて、すべての衆生を照らしている。そのことに気づけないのは、こちら側の頑なさであり、受け止めようとする姿勢なのでしょう。阿難尊者の仏弟子としての本当の歩みは、ここから始まったのです。


チベットには「師は、弟子にその準備が整った時にあらわれる」という格言があります。まず問われるべきは私の貧しい心と学ぶ姿勢なのであり、それが整えば、自然と師と仰ぐべき人の存在に、気づくことができるのだと。どうやら、私の生きる態度を見直す必要がありそうです。■