2019(令和元)年5月






「そこに、愛はあるんか?」

 以前、女優の大地真央さんが、こう問いかけるCMが話題になりました。強烈なインパクトと同時に、鋭く「本質」を問うものとして、とても印象に残りました。私たちの言動は、ついつい形式的になりがちです。形はとても大切なものですが、形ばかりに捉われると、中身や心が見失われてしまいます。中身や心の確認をするためにも、時には大地さんに「そこに、愛はあるんか?」と叱ってもらいたいものだと、思ったのです。

 

 さて、いくつかの企業がインターネットの調査で、子育て中のお母さんへ「将来、どんな子に育って欲しいですか?」と質問しています。結果を見ると、第一位はどれも「優しく、思いやりのある子に育って欲しい」という答えでした。

 では、優しさ∞思いやり≠ニは、具体的にどういうことなのでしょうか。優しくしたつもりが、単なる甘やかしになることがあります。「あなたのためだから」と言いながら、実際は押しつけになっていることもありますし、行き過ぎると圧力になることさえあります。いくら言葉があっても、その中身が問われなければ、その言葉は死んでしまうのです。

 ある教育学者が講演で、「ふれあい≠アそが親子の基本であるから、いくら忙しくても、子どもとふれあうことの喜びを大切にしよう」と呼びかけました。すると、会場から「では、一日に何時間以上ふれあえば、ふれあい≠ニ言えるのでしょうか」という質問が出て、その先生は思わずのけぞったといわれます。ふれあい≠ヘ、時間的なノルマで解決するものではありません。短い時間でも深くふれあうことはできるし、逆に長い時間一緒にいてもすれ違うことはあります。それを数字でしか考えられないとは…。ここではふれあい≠ニいう言葉は、もうすでに死んでいます。教育学者の先生が、のけぞる気持ちも、よくわかります。

 優しさ∞思いやり≠燗ッ様です。数字で表すこともできなければ、達成すべきノルマもありません。その場によって、人によって、対応も変わる。つまり、簡単には答えが出ないもの。いや一生かけても答えが出ないものかもしれないのです。だからこそ、常に中身や本質を問い続けなくてはなりません。「そこに、愛はあるんか?」と。「人の道」とは、人間の営みとは、その繰り返しではないでしょうか。そこにこそ、言葉は生き生きとした心を取り戻すのです。

 


 ジョージ・オーウェルという作家の『1984年』という小説があります。1949年に刊行されたものですが、現在でも読み継がれている、いや今こそ読まれなければならないと注目されている名著です。

 舞台は、独裁者「ビッグ・ブラザー」が支配する全体主義国家「オセアニア」。ここでは、国民の言動は厳しい監視のもとに置かれ、国に反抗的だと判断されれば「思考警察」に逮捕されてしまいます。

 人間は本来、疑問を持ち、複雑なことを考え、悩み苦しみ、時には中身や本質を見つめ直したりもします。だからこそ、人生は豊かになるのでしょう。しかしこの国では、そんなことは考えなくていい、国家の思い通りの人間になるようにと、様々な取り組みが行われます。
 例えば、戦争を統括する省庁を「平和省」と名づけます。情報を操作・改ざんし、国家が言うことがいつも正しい状態を作り出す省庁を「真理省」。国民を管理し、国家に反抗的な者を逮捕、拷問、洗脳し、最後には処刑する省庁は「愛情省」です。平和のために戦争し、国家の言うことだけが真理であり、愛情があるがゆえに国民を処罰する。美しい言葉を使いながらも中身を変えていき、いつの間にか思考をも管理する。そして段階的に言葉を減らし、言葉の意味を減らし、簡略化していきます。

 実は、人間にとって言葉とは、そしてその意味とは、生き方さえも左右する重要なものなのです。私たちは言葉の中に生まれ、言葉によって育てられ、考え、言葉によってものを見ています。ですから、言葉が少なくなり、意味が簡略化されると、深く考えることも、豊かに感じることもできなくなります。つまり、言葉が死ぬと、人間の営みも死んでいくのです。それを利用して、何も考えず、何も感じない、国家の言いなりになる国民が作られていきます。


 それは、人間にとって恐ろしいことだと思いきや、意外とそうでもないのです。本質を問い直すよりも、答えを与えてもらった方が実は楽なのではないでしょうか。間違いや愚かさと向き合うよりも、都合の悪いことは忘れ、良いことだけを見て生きた方がいい。深く考えるのは、面倒くさい。人間には、そんな部分も確かにあります。しかし、その道を選ぶということは、人間らしさを失い、人間であることを放棄してしまうということでもあるのだと教えられるのです。

 これは、小説の中だけの話ではありません。現実に、都合の良い事実だけを切りとったフェイクニュースと呼ばれる情報が飛び交っています。自虐史観という言葉で、歴史と真摯に向き合う姿勢が貶められています。歴史を振り返れば、小説『1984年』と同様のことは、いくらでも起こっている。だからこそ、今読まれなければならないものとして、この小説が注目されるのです。時間の長さだけでふれあい≠理解しようとするのも、経済や効率ばかりを優先し、本質を問い直すことを忘れた時代が作り出したものなのでしょう。

 


 ちなみに歴史と向き合うということなのですが…、
そもそも完璧な人間はいませんし、誰もが必ず失敗をします。苦しみ悩みながら、そうせざるを得ないこともあります。何より私たちは、みんな時代的制約の中に生きていますから、その時、その場では見えないことがあるのです。つまり先人の失敗を、結果論だけで斬り捨てるのは、後出しジャンケンのようでとても失礼な行為です。そこに「愛」はありません。だからといって、都合のよい部分だけを切り取り、都合の悪い部分を無きものにすることは、先人の失敗を、そして人生までも、虚しいものにする行為です。先人を思いやり、「愛」するとは、次の世代の私たちが、失敗を活かしていくことなのだと、私は思っています。

 

 優しさ∞思いやり=c。言葉では、みんな知っています。しかし、それが具体的にどういうことなのかは、簡単に答えが出るものではありません。常に、中身や本質を問い続けなくてはなりません。そこにしか、人間の営みはないのですから。それを簡略化し、見失い、忘れることは、言葉を殺し、人間らしさを失うことになるのです。

 私は、問い続ける営みの尊さを、親鸞聖人の生き方から教えられました。聖人の一生は、まさに苦悩と問い直しの人生だったと言えるでしょう。常に「そこに、阿弥陀様の心はあるんか?」と。だからこそ、親鸞聖人の出遇われた世界は、深く、豊かなのです。

 なかなか深まりもせず、豊かにもなりませんが、ささやかでも、そんな営みを続けていこうとする。それこそが「人の道」だと思う、今日この頃です。■

 

※ 今回の文章では、大地真央さんの「そこに、愛はあるんか。本当の愛は、あるんか?」という言葉を、キーワードにしました。しかし、言葉の本質ということで言うならば、本来仏教では、「愛」とは「執着する心」のことで、あまり良い意味では使いません。「愛より憂いが生じ、愛より恐れが生ず」(『法句経』)と言われていますし、「愛憎」というように、愛と憎しみは表裏一体。愛情が強ければ、憎しみもまた強いと考えます。ただ、このCMでの「愛」とは、「本質」を表わしているのだと解釈し、採用していることをご了解ください。