2019(令和元)年8月



  

 近頃は、葬儀を簡素化する傾向が強くなりました。それぞれ事情がありますから、それがいけないというわけではないのです。ただ、その裏には「できるだけ、迷惑をかけたくない」という思いや、「知らない人に来られても困る」「後のお返しが大変だ」という声があるようです。
 それが行き過ぎて、お参りを断る家もあるのだとか。しかし、亡き人は遺族だけのものではありません。遺族は知らなくても、亡き人はたくさんの人々と共に生きてこられたのです。
 私は葬儀の後に、遺族の方(特に都会に住んでおられる方)から、
「たくさんの地域の人が、お参りに来てくださった。涙を流してくださった。お母さんは、あの人たちと一緒に生きていたんですね」
といった言葉をよく聞きます。一人の人生は、多くの人々との関わり合いによって成り立っているのです。その事実を味わうことは、人間が生きていく上でとても大切なことではないかと、考えさせられます。

 

毎年8月12日。群馬県の御巣鷹山の尾根にある昇魂之碑の前には、たくさんの方々の姿があります。1985年、520人の人生が奪われた日本航空123便墜落事故の遺族の方々が、追悼のために登られるのです。
 そしてそこには、この二十年の間に起きた、さまざまな事故や災害の遺族の姿もありました。信楽高原鉄道事故、JR福知山線事故、中華航空機事故、オーストリアのケーブルカー火災、明石歩道橋事故、東武竹ノ塚踏切事故、シンドラー社エレベーター事故、御嶽山噴火災害、東日本大震災の津波災害、関越自動車道バス事故、軽井沢スキーバス事故……。
 これらの事故や災害の遺族が、なぜ御巣鷹の尾根を目指し、集うのか。そのきっかけは、日航機事故で当時9歳の次男・健さんを亡くされた美谷島邦子さんが、その後も次々に発生する事故や災害の慰霊祭や遺族の集いに参加し、交流の糸口をつくってきたことに始まるのです。

 美谷島さんら遺族で作る「8・12連絡会」は、考え方や立場の違いにこだわらず、緩やかな関係でつながり合い、悲しさやつらさを語り合う場を作り、遺族の孤立化を防ぐとともに、安全で安心できる社会作りに向けて発言してきました。
 美谷島さんは新たな事故や災害の現地を訪ね、遺族とともに現場を歩いて語り合います。そして「一度御巣鷹に来てみませんか」と声をかける。その積み重ねが、御巣鷹の尾根での集いを生んだのです。旧知のような出会いの親睦感を胸に刻み、帰途に就くだけ。それぞれ悲しみを胸にたたえていても、出会いの場では、みな柔らかな笑みを浮かべているそうです。
 また、美谷島さんたちは「いのちを織る会」を結成し、小中学校での「いのちの授業」などの活動をされています。その授業に参加した小学生は、こんな言葉を書き記しました。「一つの命の後ろには、たくさん命があると感じた」
      (「日航ジャンボ機墜落事故32年」毎日新聞2017年8月26日 柳田邦男)


 事故や災害で亡くなられた方を、長い時間が経ってもなお、悼み、思い続ける人がいる。三十年以上の年月を経ても、忘れられない悲しみがある。それは、亡き人を大切に思い続けているからなのです。そしてその悲しみを抱えながら、共に生きている人たちがいる。そんな姿を通して、一つの命の後ろにある、たくさんの命をリアルに感じたからこそ、生まれた言葉なのだと思います。
 同時に、この言葉を書いた小学生は、思ったことでしょう。「僕が死んだら、悲しむ人がいる。だからこそ、僕も一所懸命に生きなくてはならない」と。

たくさんのいのちの中に、私がいるのです。そして、私の後ろには、たくさんのいのちがあるのです。それは、別々なものではありません。つながり合い、支え合って、成り立っている。仏教では、その繋がりこそが「私そのもの」なのだと教えます。まさに、いのちは多くの関係性で織り上げられたもの。美谷島さんたちが会の名称を、「いのちを織る会」と名づけられたのは、いのちの本質をズバリと指摘されていると思いました。

近頃は、「つながり」を「縛り」のように受け止め、断ち切ることで自由になれると思う人が増えました。しかしそのことで孤立が生まれ、自分のいのちを、そして周りのいのちを、軽いものとして扱うようになってはいないでしょうか。

長いいのちの歴史があるからこそ、今私の人生があるのです。たくさんのいのちの中に、私の人生があるのです。そんな広大無辺のいのちの幅と深さを、仏教は教えてくださるのです。そして、その事実に目覚めることが、自らのいのちの重さを知り、周りのいのちを尊ぶことになるのだということも。■