2019(令和元)年9月




  

近頃は、ペットを家族のように思う方が増えました。同時に、ペットを亡くした悲しみも深く、「こんなに悲しいのなら、飼わなければ良かった」と言われる人も、多くあります。

 この言葉を聞くたびに、私は思うのです。
 悲しいということは、それだけ大切な時間を共に過ごしたからではないですか。かけがえのない思い出があるからこそ、悲しいのではないですか。ならば、「飼わなければ良かった」という言葉は、大切な思い出をも否定することになるのではないでしょうか。そちらの方が、もっと悲しいことではないですかと。「失った悲しみの大きさは、与えられていたものの大きさである」とは、私の尊敬する宮城先生の言葉ですが、まさに悲しみの大きさが、共に生きたかけがえのない人生を表しているのだと思うのです。

 病床につかれた連れ合いを、長年看病された方があります。とても大変そうでした。でも、連れ合いの方が亡くなられた時に、涙をボロボロこぼしながら悲しまれるのです。その姿を見ていると「ああ、この人にとって連れ合いの方は、かけがえのない人だったんだ。そして、そんなかけがえのない人と出遇うことができたということは、とても幸せなことなのかもしれない」と思いました。大変だった時間も、しんどかった時間も、振り返ればとても大切な時間でかけがえのない思い出。この方は、一度きりの尊い道を、歩んでこられたのだ。別れの涙が、その尊い時間を表しているのだと、改めて教えられたのです。

 

先日、友人から薦められて『おみおくりの作法』(監督 ウベルト・パゾリーニ 2015年イギリス)という映画を観ました。正直、センスが良いとは言えない邦題ですが、原題は『STILL LIFE』、直訳すると「静物画」です。「静物画」とは、切花・果実・器物等それ自体では動かないものを組み合わせて描いた絵のことですが、まさに文字通り「静物画」のように、静かで坦々とした地味な映画でした。同時に、とても味わい深く、考えさせられる深い映画でもありました。

 

イギリスには、孤独死した人の葬儀や後片付けを行う民生係という部署があるそうです。主人公は、ロンドン・ケニントン地区の民生係をしている独り暮らしの40代の男性。葬儀は事務的に処理することもできるのですが、生来の生真面目さから、彼は死者に対して敬意をもって接し、亡くなった人の身内を探すなど力を尽くし終えて、初めて葬儀を手配します。故人の身内や知り合いに、葬儀への参列を呼びかけますが、いつも出席者は彼一人。彼は故人の遺品から、そこにあった一人の人生を浮かび上がらせていきます。その丁寧さ故に効率さとは無縁で、安置所にはいつも多くの遺体がありました。それは、彼の死者に対する誠実さと敬意の裏返しなのです。一人の人生のかけがえのなさや思い出を尊重する姿が、しみじみと伝わってきました。

しかしある日、経費削減のための人員整理により、彼は解雇されることになるのです。若い上司は、誠実さや敬意などよりも、時間短縮、効率重視を求めていく人物。まさに、現代社会に生きる私たちの象徴のように描かれます。主人公が職場の後片付けを行う横で、新たな担当者のもと、効率良く遺体が処理されていくのが印象的でした。

主人公にとって、解雇通告の少し前に携わったビリー・ストークという男の葬儀が、最後の案件となりました。最後の仕事として、彼はこれまで以上に熱意をもって仕事に取り組みます。ビリーを知る人々を訪ね、イギリス中を旅するのです。「ろくでもないヤツだった」「迷惑をかけられた」「女にはもてたが、人間的には最悪だ」。ビリーの思い出を語りながらも、葬儀への参列を断る人々。しかし、主人公との会話を通しながら、それぞれの人生を、また噛みしめていくのでした。

故人との思い出は、遺された者の人生でもあります。故人を忘れるということは、自らの人生をも失っていくということなのかもしれません。つらいことも、嫌なことも含めて、この私の人生なのです。主人公との会話の中から、それぞれの人生を少しずつ取り戻していく人々。そしてビリーの葬儀は、多くの人々の参列のもとに行われたのでした。しかし、そこには主人公の姿はありません。なぜなら・・・、気になる方は、ぜひご覧ください。

映画は、坦々と進みます。私たちの日常生活のリズムとは違い、ゆっくりと間を取りながら。しかし、この時間の進み方が、実はとても大切なものであり、私たちが失ってしまったものではないかと考えさせられました。

思い出を噛みしめる時間。自らを振り返る時間。出遇い、別れ、喜び、悲しみ。そんなひと時を通して、自らの人生がかけがえのない尊いものであることを味わう時間。そして共に過ごした時間は、故人の人生でもあり、遺された側の人生でもあること。それをゆっくりと噛みしめ、消化していくからこそ、人生は耕され、豊かになっていくのでしょう。

 

映画を観た後、改めて『STILL LIFE』という原題には、深い意味があるのではと考えさせられました。静物画(STILL LIFE)は、ただ、モノが描かれていると考えるのではなく、何を選び取り、どのように配置したのかという画家の意図が反映されていると見るべきだと言われます。ならばこの映画は、私たちが人生の何を選び取り、何をどう配置しているのかを、静かに問うものなのかもしれません。

また静物画には、「ヴァニタス画」というジャンルがあります。権力や富を意味する様々な静物(冠や宝石)と共に、「人間は皆、必ず死ななくてはならない」ことを意味する頭蓋骨や腐っていく果物などを描き、観る者に「虚栄のむなしさ・はかなさ」を知らしめる画です。まさにこの映画は、時間短縮、効率重視を選び取る現代社会に描かれた、ヴァニタス画のように感じられました。

 

そして…『おみおくりの作法』という、あまりセンスの感じられない邦題にも、大切なメッセージが込められていると思うようになりました。私たちは、どんな「おみおくりの作法」をしているのか。作法を通して、共に過ごした時間の何を選び取り、どう振り返っているのかが、問われている。そう、受け止めるようになったのです。

ただ、それにしても、もう少し良い題名があったのではないかという思いも、捨てきれないのですが。■