2020(令和2)年10月





ある男性が足の不調を訴え、病院に行きました。診断後、先生は言いにくそうに、こう告げられたそうです。「骨肉腫です。足を切断しないと生命が危ない。早く手術をした方がいいですね」と。

地位もあり、才能にもあふれ、将来を嘱望されていた方でした。周りも驚きましたが、何よりもその方自身が驚かれ「まさか、自分がこんな目に・・・」と、落ち込まれました。しかし、生命に関わることですから、仕方ありません。手術を受け、片方の足を切断されたのです。手術後、入院中のベッドでは大きなタオルケットで足を隠し、「こんな姿になって、恥ずかしい」と言われていたそうです。

ある日のこと。その方の奥さんが、同じ病院で一人の女子中学生を見かけました。彼女は交通事故にあって片足をなくし、まさに男性と同じ状況にありました。それでも、周りの人を思いやり、周囲までをも明るくするような生き方をしていたのです。奥さんは、「うちの人も、彼女の姿を見てくれないだろうか」と密かに期待されました。

期待通り、病院の売店で男性と彼女は出遇いました。一方は「こんな自分は情けない、恥ずかしい」と呟きながら生きている。一方では同じ状況を明るく、精一杯生きている。そんな二人が出遇ったのです。男性は、彼女の姿に感動されました。そして部屋に戻るなり、足を隠していたタオルケットを投げつけ、仰った一言が…「恥ずかしい!」という言葉だったそうです。それ以来その方は、片足のない自分を懸命に生きられました。手術前と変わらないくらいに仕事をこなされ、スキーにも挑戦されたそうです。
         (ラジオ放送『東本願寺の時間』名畑格 「二つの恥ずかしい」より)


 


この男性は、二つの「恥ずかしい」という言葉を使っておられます。一つ目は「こんな自分で恥ずかしい」という、自分を貶める恥ずかしさです。「足を無くした私は、情けない者になってしまった」と自分を蔑み、「みんな元気にやっているのに、どうして俺だけが」と、人と比べて自分を惨めに思う言葉です。では、どうして恥ずかしいのでしょう。それは、日頃から「齢をとったら、恥ずかしい」「動けなくなったら、見っともない」「病気になったら…」「あんな姿になったら…」と思いながら生きてきたからではないでしょうか。他人を蔑んできた思いが、自らの身に突きつけられた時に、自分を苦しめる。まさに他人を、そして自分をも貶める「恥ずかしさ」です。

しかしこの男性は、もう一つ別な意味で「恥ずかしい」という言葉を使っておられます。こちらは、前の「恥ずかしい」とは全く意味が違います。自分の人生に向き合い、深く人生を歩む中学生の姿に出遇ったことで、これまでの生き方が、いかに愚かなものだったのかと受け止めた。まさに、気づきの言葉であり、目覚めの言葉としての「恥ずかしさ」なのです。

 

 親鸞聖人は、自らを「悪人」「愚者」と名のられました。
 一般的に「悪人」「愚者」という場合、他人を貶め、蔑む時に使います。「あいつは、愚かだ」「情けない、恥ずかしい」と。だから、そうはなりたくないと思って生き、いざ自分自身がその立場になってしまうと、自らを貶め蔑むのでしょう。それは男性が、手術直後に使われていた「恥ずかしい」と同じ態度です。立場が変わっただけ。他人を蔑むか、自分を貶めるかの違いだけで、生き方そのものは全く変わっていないのです。

 しかし、親鸞聖人の「愚者」の名のりは、それらとは全く違います。男性が、中学生と出遇った後に言われた「恥ずかしい」という一言と同じ、気づきの言葉です。阿弥陀様と出遇い、これまでの生き方を恥じ、新たに生き直していこうとする、愚かさに目覚めた姿なのです。

小児科医で真宗大谷派(東本願寺)の僧侶、梶原敬一さんは、

人生はやり直すなどということはできません。/どんなことをしていても、人生を反省して新しくはじめればいいと言うけれど、反省したくらいではおさまらないことは山ほどある。/
 やり直しはきかないけれど、生き直しはできます。/生き直すことと、やり直すことは、何が違うか。生き直すことができるのは、世界が変わるからです。自分が今まで見聞きしていた世界と違う世界を生きるから、生き直すことができる。/人間の根性は変わらないかもしれません。でも、人間の根性は変わらなくても、自分が自分の世界だと思い込んでいたものが、その感覚が変わることによって、新しく生き直すことができる。念仏を聞いたときに、それが可能であるということを、親鸞聖人が言われたのだろうと思います。親鸞聖人は、新しい世界を生きておられたのだと思います。(『生きる力』梶原敬一)

と言われています。

「愚か」だということと「愚かさに目覚める」ということは、同じではありません。阿弥陀様と出遇い、自分の生き方の「愚かさに目覚める」ことこそが、自らの人生をより豊かに尊いものとしていただくことなのだと、親鸞聖人の生き方から教えられるのです。■