2020(令和2)年11月








 私たちは、人にしてあげたことは幾らでも覚えています。しかし、してもらったことは、すぐに忘れがちです。ただ、忘れるということは一度気がついたということでもありますが、実は気がつかないことの方が多いのでは。私たちは、たくさんのものをいただき、様々な思いや願いの中で生かされている。そのことを、見失ってはいないでしょうか。

 NHKで『ウワサの保護者会』という番組が放送されています。小・中学生の保護者と教育評論家の尾木直樹さん(通称尾木ママ)が、子育てや教育について語り合う番組です。ある回では、「子どもを自立させるには」とテーマが話し合われました。

 尾木ママが、参加している保護者に尋ねます。「自立って、どういうことだと思いますか?」すると一人のお母さんは、「人に迷惑をかけない、自分で何でもやれる。それが自立だと思います」と答えていました。まあ、それが一般的に思われているところの「自立」なのでしょう。

 番組には、食物アレルギーがある子のお母さんも、参加しておられました。その方は家族で外食する際、予めレストランに電話し、どんなメニューがあり、どんな食材が使われているかを確認します。そしてその様子を見せることで、子ども自身がこれからどうすればいいのかを教えているのです。これを「自分で何でもやれる子に育てるため」と言われていましたが、それは「誰に助けを求めれば良いのか」を教える行為ではないでしょうか。自立とは、自分一人で何でもできる人間になることでも、人に迷惑をかけない人間になることでもありません。どのようにすれば助けを求めることができるか、誰に助けを求めれば良いのかを知ることです。なぜなら私たちは、一人で生きていくことはできないのですから。

 

尾木直樹さん

 「一般的に〈自立〉の反対語は〈依存〉だと勘違いされているが、人間は物であったり人であったり、様々なものに依存しないと生きていけないのだ」

こう言われるのは、小児科医で東京大学先端科学技術研究センター准教授であり、脳性麻痺の影響で車椅子生活を送られている熊谷晋一郎先生です。
 熊谷先生は東日本大震災のとき、エレベーターが止まり、職場である5階の研究室から逃げ遅れました。その時、逃げることを可能にする「依存先」が、自分には少ないことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられる。三つも依存先があった。ところが熊谷先生にはエレベーターしかなかったのです。
 一般的に、健常者は何にも頼らずに自立して、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけないと思われています。けれども実は逆で、健常者は様々なものに依存でき、障害者は限られたものにしか依存できない。世の中のほとんどが健常者向けにデザインされているため、その便利さに依存していることを忘れている。膨大なものに依存しているのに、「私は依存していない」と錯覚できる状態が、健常者には整えられている。逆に、障害者は「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は、依存先を親や施設以外に広げる運動でなくてはならない。「自立とは依存先を増やすこと」なのだと言われるのです。(東京都人権啓発センター情報誌『TOKYO人権』第56号)


熊谷晋一郎さん

 この言葉を受けて、若者の自殺に詳しい精神科医の松本俊彦先生は、このように言われています。

それを熊谷さんから聞いた時に、ハッとしたんですね。僕ら自身も依存症の治療をやっていますが、治るということは依存しないことだとつい思ってしまいがちです。この言葉を聞いたときに、そうなんだよな/と思って。歯を食いしばって、誰にも泣き言を言わずに一人で頑張ることが自立ではない。そんな人は脆くてすぐにポキッと折れちゃうんです。/そして、最大の自傷行為は何かというと、「助けを求めないこと」なんです。

人生において最悪なことは、ひどい目にあうことじゃなくて、ひとりで苦しむことなんじゃないかっていう気もするんですよ。彼らに必要なのは、道徳教育ではなくて健康教育です。それは1割の少数派の子どもたちに「辛い気持ちに襲われたときどうやって助けを求めたらいいか」を教え、9割の多数派の子どもたちに「友だちが悩んでいたら、どうやって信頼できる大人につなげたらいいか」「そもそも信頼できる大人はどこにいるのか」を教えることです。
(文春オンライン <精神科医が語る座間9遺体事件♯3> 自立とは依存しないことではなく、依存先を増やすことだ 若者の自殺に詳しい松本俊彦さんに聞く) 

 私たちは、助けてもらって良いのです。いや、助けてもらわなくては、生きていけないのです。実は、様々な助けの中にいるのにも関わらず、忘れ、錯覚し、見失っているのが、現代社会に生きる私たちなのでしょう。



 浄土真宗は、阿弥陀様の本願他力に目覚めていく教えです。他力というと、他人の力を当てにした「ひとまかせ」「無責任」といったネガティブなイメージが定着していますが、そうではありません。他力とは、阿弥陀様の「利他力」のことです。私を思ってくださる阿弥陀様のはたらきが、今ここに躍動している。老い、病み、死んでいくという事実を抱え、人生に煩い悩み、よりどころを求める私たちに、「ここに、本当に信頼できる世界がある」「独りではない」「助けを求めていいんだ」と、呼びかける世界がある。このはたらきを他力といわれるのです。

 阿弥陀様の利他力をよりどころにするからこそ、真実の自分の姿に気づかされる。生かされていることの喜び、支えられている有り難さ、共に生きることの温もりに目覚め、確かな人生を歩むことができる。そこにこそ、心豊かな人生が開かれるのだと教えられるのです。



  生かされて 生きてきた   生かされて 生きている
  生かされて 生きていこうと
  手をあわす 南無阿弥陀仏 (「生きる」中川静村)■