2020(令和2)年12月





道しるべとは、進む方向・目的地などを記したものです。自分がどこに向かい、どこにいるのかを知るために、とても重要なものです。自分の感覚や、その場の都合だけを頼りに進むと、迷っていても気づけず、修正することもできません。

では、「私は、何を人生の道しるべにしているのだろうか」と、考えたことはありますか?目先の損得や都合ばかりが、優先されている時代です。どんな生き方を目指し、どう生きているのかなど、深く考える人は少なくなっているのではないでしょうか。しかし、これはとても重要な問いであるはずです。もしかすると、私たちは生きる方向を見失い、迷っているのかもしれないのですから。

 



『歎異抄』という書物の第二条には、親鸞聖人が晩年の頃のお話が描かれています。

京都におられた聖人のもとに、関東から何人もの方が訪ねて来られました。「往生極楽の道を問い聞かんがために」とありますから、いのちの行き先を問うことが目的でした。今のように、新幹線を使えば二〜三時間で着くような時代ではありません。三十日以上もかけ、いくつもの国境を越え、歩いて来られたのです。しかも治安の悪い時代ですから、まさに命がけ。それだけ真剣な態度で「お念仏の道は、本当にお浄土へ生まれ、仏に成ることができる道なのでしょうか」と、歩むべき方向を聞くために、訪ねてこられたのです。

 ところがそんな人たちに対して、親鸞聖人が言われた言葉には、驚かされます。

「念仏は浄土に生まるるたねにてやはんべらん 地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって、存知せざるなり」

なんと親鸞聖人は、「私にはわからない」と言われるのです。しかも、

「親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまゐらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり」

「私は、お師匠の法然聖人の示された、このお念仏の道を歩むほかありません」と、一見突き放すような言い方で。そして、

「このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、 面々の御はからひなり」

「後は、あなたたち自身の問題ですよ」とも言われるのです。真剣に、いのちがけで来られた人たちに、普通はこんなことは言わないでしょう! しかしこの言葉には、実は深い思いが込められているのです。

 親鸞聖人は、「私の前にいくつもの選択肢があった上で、法然聖人の薦め通りにお念仏の道を選び、それで裏切られたのなら恨みも後悔もするだろう。しかし、私はどんな生き方をしていたのか。「地獄は一定すみかぞかし」地獄への道を、まっしぐらに進むような生き方しかできないのが私ではなかったか。そもそも私には、選択肢などなかったのだ」と、言われています。
 「地獄は一定すみかぞかし」まさにこれは、親鸞聖人が深く深く自らの人生を見つめられたからこその言葉です。迫力に満ちています。凄みさえ感じます。

 


私たちは、ここまで自分の生き方と向き合うことがあるでしょうか?近頃は「いのちを奪うことに、罪深さを感じる」などと、言わなくなりました。それどころか、海の魚を海産資源と言い、人を人的資源と言う時代です。昔は、牛や豚を「育てる」と言いましたが、近頃は「生産する」と言います。いのちを商品か資源にしか見ていない。しかもそんな見方が、人間にまであてはめられています。

 あれは2000年のことでした。少年犯罪が立て続けに起こった当時、『ニュース23』という番組の討論会で、一人の若者が「どうして人間は生き物を平気で殺すのに、どうして人を殺してはいけないのか」と尋ねました。その時、大人たちは何も答えられませんでした。
 今振り返ると、若者がそう言うのも当たり前だと思います。なぜなら昔の人は、いのちを奪うことに痛みを感じていた。申し訳なさや、罪深さを感じていた。だから「いただきます」「ごちそうさま」と手を合わせていたのです。
 ところが今や「いのちをいただく」という感覚は失われ、商品か資源にしか見ていない。同様に、人間も商品や資源としてしか見られていない。だから「どうして人を殺してはいけないのか」と言う若者が育つのでしょう。あれから二十年経った今、その感覚は益々広がっています。まさに、地獄への道をまっしぐらに進んでいながら、そのことに気づくこともできていない状況が。

 

 自分の生き方を深く見つめられた親鸞聖人は、法然聖人を道しるべとして、阿弥陀様の願い(本願)と出遇われたのです。「こんな生き方しかできない私を悲しみ、それでも慈しんでくださる阿弥陀様の世界があったのだ。私を、尊ばれ敬われる仏とさせようと、はたらいてくださる阿弥陀様のご本願があったのだ」と。
 つまり、親鸞聖人には「私は、この道でしか救われない」「この教えは、まさに私の為に説かれた教えなのだ」という絶対的な確信があったのでしょう。だからこそ、「私は法然聖人の示された、このお念仏の道を歩むほかはない」「後は、あなたたち一人一人の問題なのだ」と言い切ることができたのだと思うのです。

 もし、そんな姿を目の当たりにしたら、どうでしょうか。きっと圧倒されますよ。『歎異抄』の言葉を読むだけで、背筋が伸びてきます。自分の薄っぺらな受け止め方が、恥ずかしく思えてきます。

「そこまで深く、人生を見つめておられるのか」

「それでも自分の人生を尊いものといただける道を、この人は歩んでおられる」

「私のものの見方は、何と薄っぺらだったのか」と。

そして、

「いや、私こそこの道でしか救われない」

「私には、この道しかないのだ」

と頭が下がってきます。この『歎異抄』の第二条には、そんな深い人生を歩まれる親鸞聖人の姿と、その姿に感動され、新たに自分の人生を見つめ、いのちの行く先を確かなものとされた人々の歩みが描かれているのです。

お念仏の教えと、その道を歩まれた方々の歴史は、いのちの行く先を示すものであり、今の私の生き方を深く気づかせてくださるはたらきでもあります。まさに、この世とあの世の道しるべだと言えるでしょう。その道しるべをよりどころに、歩まれた方々の歴史が、私たちのところにまで届けられているのです。

 

私たちは、何を人生の道しるべとしているのでしょう。どこに向かい、どんな生き方をしているのでしょうか。これは、とても重要な問いであるはずです。私たちは行き先を見失い、迷っているのかもしれないのですから。■