2020(令和2)年3月



 気忙しい時代です。仕事や習い事に追われて、大人も子どもも忙しく日々を送る時代になりました。まさに、時間に追われながら、日々のスケジュールをこなすことに精一杯のようです。

昔は、正月やお盆には、親族一同が集まりました。今よりも長い時間をかけて故郷に帰り、懐かしい人々と顔を合わせることを大切にしていました。法事や葬儀も、たくさんの人が集まっていましたが、今やそんな時代ではありません。簡素化され、短時間でこなすことが優先されるようになりました。これだけ気忙しい時代ですから、それも致し方ないのかもしれません。

 

 キリスト教の神学者で哲学者でもあるパウル・ティリッヒは、時間の概念を「クロノス」と「カイロス」に分けています。ティリッヒによれば「クロノス」は、時計が刻む秒・分といった物理的な時間のことを指し、「カイロス」は主観的・体験的な時間を指します。

好きなことをしている時間って、あっという間に終わりますよね。それに比べて法事のお経の長いこと…。「クロノス」の時間としては同じでも、私が主観的に感じる時間「カイロス」は、その場によって長さが変わるのです。

真宗僧侶で、宗教学者の釈徹宗先生は、

現代人はかなりクロノスを有効活用しています。かつては数日かかった移動距離を、数十分で到達することができます。/2時間も3時間も必要だった食事やお風呂の準備も、それほど手間をかけずに実行できます。ですから、現代人はひと昔前よりもずっと時間があまってしかるべきなんですよね。でも、あきらかに現代人の方が忙しくなっている。時間に余裕がない。あらためて考えてみれば、おかしな話ではありませんか。これは主観的な時間であるカイロスが委縮しているからだと思います。いくら物理的な時間のクロノスの余剰があっても、カイロスが縮めば忙しくてイライラして、しんどくなってしまうのです。(『異教の隣人』釈徹宗)

と指摘しておられます。確かに昔より便利になったのですから、人生にゆとりがあっていいはずなのに、昔より気忙しくなり、そのスピード感からか視野も狭くなっています。

私などは、コンビニのレジで前の人がモタモタしていると、イライラします。道路工事の信号は、青になるまでの残り時間が示されていますが、あの一分の長いこと。そんな時にハッと気づくのです。「オレは、一分が待てない人間になっているのか」と。「カイロス」が委縮した時間の中にいると、些細なことでも辛抱できなくなってしまう。どうやら「カイロス」の時間を延ばさなければ、心豊かな人生を送ることはできないようです。



 では、「カイロス」の時間を延ばすにはどうすれば良いのでしょうか。釈先生は、「そのもっとも良い装置は宗教儀礼だ」と指摘されています。

人類ははるか古代から宗教儀礼を営んできました。宗教儀礼の場を創造することによって、人類 は共同体を維持し、大きな存在に思いをはせ、個人を超える感性を育ててきたのです。(『異教の隣人』釈徹宗)

 

 そう考えると、法事はとても大切なものだと思います。阿弥陀様の前で、親戚一同が集まり、亡き人との思い出を味わいながら、昔話や近況を語り合う。長いいのちの歴史があり、様々ないのちのつながりの中で、私の人生があることを実感する。日頃の気忙しい生活とは、まったく違った時間の流れと、世界の広さを味わう。まさに親戚と遇い、亡き人と遇い、阿弥陀様と出遇う場です。法事を大切に営むことは、確かに「カイロス」の時間を延ばすことにつながると思います。ところが私たちは、法事さえもスケジュールをこなすように扱い、ますます「カイロス」を委縮させてはいないでしょうか。

 

 スイスの精神科医で分析心理学を創設したユングが1920年代の頃、アメリカのプエブロ・インディアンを尋ねました。ユングはそこで、長老たちがヨーロッパの老人とは比べものにならない「悠然とした落ち着き」と「気品」をそなえていることに気づきます。なぜだろう。うらやましい。何とかその秘密を知りたい。そう思い、彼らと親しくなる中で、ユングはとうとう「秘密」を聞き出しました。

インディアンたちは自分が世界の屋根に住み、父なる太陽の息子たちとして、自分のたちの宗教的儀礼によって「われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりではなく、全世界のためなんだ」と確信しているのである。

こんな話ばかげていると一笑に付すことができるだろう。しかし、ユングはこれこそインディアンの長老たちの「気品」の由来だと思ったのである。「彼らが父なる太陽の、つまり生命全体の保護者の、日毎の出没を助けている」という「宇宙論的意味」をもつからだ、と彼は述べている。

ヨーロッパが世界の中心と思われていたころに、ユングはすでにこのように言っているのは驚きである。現在の状況は一九二〇年代よりもっとむずかしくなっている。現代に生きる老人たちが、その使命をどこに見いだすのか。老いてなお「気品」を保つためには、老人も安閑としてはおられないのである。(『「老いる」とはどういうことか』 河合隼雄)

 

 彼らは宗教的儀礼を通して、大きな世界と出遇い、自分の人生の使命と意味を感じとっていたのです。今の時代なら、子どもでも馬鹿にし笑うような話です。しかしそれを笑いながら、気忙しく生きる私たちよりも、彼らの方が「悠然とした落ち着き」と「気品」をそなえている。なぜなら、時間の流れも、出遇っている世界のスケールも、まったく違うのですから。



 皆で集まり、阿弥陀様の前で手を合わせ、お念仏申す。それは独りの殻を出て、雄大ないのちの歴史と、壮大ないのちの繋がり、そして私を包む大きなはたらきに出遇うという営みなのでしょう。委縮した「カイロス」の時間を延ばし、「悠然とした落ち着き」を備えるための装置でもあります。そこに心豊かな人生と、尊い出遇いが開かれるのだと、教えられるのです。

 とは言っても、そんな素晴らしい場であるお寺にいながら、かなり「カイロス」が委縮している私のあり方って、いかがなものなのでしょうか。これは相当迷いが深そうです。■


「インディアン」を差別語だと言われる方がおられますが、立教大学元教授の阿部珠理氏によると現在、アメリカ政府の法令においては、ネイティブ・アメリカンとアメリカ・インディアン両方の呼称を併用しているようです。先住民自身においても、最近では特定のこだわりを示す人は少なくなっているようですし、歴史の誤謬は誤謬として正しく記憶されてよいと、むしろアメリカ・インディアンの使用に積極的な人が多いそうです。先住民学の第一人者であるラコタ・スー族のヴァイン・デロリア・ジュニアは、歴史がアメリカ・インディアンに対して犯した大罪を忘却しないためにも、「建設的抵抗」を示す名辞として、アメリカ・インディアンの呼称を使用し続けるべきだと主張しているとのこと。そのため、ここでは出典の文言通りに記載しています。