2020(令和2)年4月   




「コーチディベロッパー」という職業をご存知ですか。簡単に言えば、コーチのコーチです。
 スポーツ界には、選手を指導するコーチがいます。しかしコーチは、どう指導すべきかを指導されることはありませんでした。選手の成長にはコーチが必要であるように、コーチが成長するにもコーチが必要であるはず。ということで、コーチを教えるコーチ、「コーチディベロッパー」という職業が生まれたのです。今では日本スポーツ協会も、その養成に力を入れています。

社会人ラグビーのヘッドコーチやラグビー高校日本代表のコーチングスタッフを勤める今田圭太さんは、同時にバスケ・野球など、異なる競技のコーチディベロッパーを勤めています。
 今田さんは、コーチにこう問いかけます。
 「あなたが組んだ今日の練習の目的は?」
 「その目的に対して、練習は何点でしたか?」
 「今後より良くするためにはどうすれば良いと思いますか?」

 現役のコーチでもある今田さんは、こうした質問がコーチにとって心地良いものではないことは分かっています。自身のコーチ哲学が揺さぶられる。これまで積み重ねてきた経験が否定され、プライドが傷つくこともある。そこには、大きな痛みがともないます。

だからこそ今田さんは、社会学者ジャック・メジローの「大人の学びは痛みをともなう」という言葉を大切にしておられるのです。あくまで優先されるべきは、選手の成長。これまでの経験に執着すると、選手を一面だけで決めつけ、成長を妨げることにもつながる。握りしめた経験を手放すことが、痛みをともなうとしても、それが学びを深め世界を広げることでもあるならば、受け入れなくてはならない。いや、痛みをともなうからこそ、学びが深まり世界が広がるのだ。「NO PAIN NO COACH(痛みがなければ、コーチではない)」なのだと。(Sports Graphic Number web 『早大ラグビーでの挫折を経て世界へ。“コーチを教えるコーチ”って何?』)

 私たち大人は、子どもたちに「間違いは、素直に認めてあやまりなさい」と教えます。では、大人である私たちは、素直にあやまれているでしょうか。大人になり歳月を重ねるほど、積み重ねてきたものが大きいほど、それを握りしめ執着してしまいます。間違いだとわかっても、なかなか事実を受け入れられません。それどころか、自己正当化や保身のテクニックだけは長けていく。いつしか、素直に「ごめんなさい」と言えなくなってはいないでしょうか。





  親鸞聖人は、
「浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし
   虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし」(『正像末和讃』)

と、しるされています。阿弥陀様のみ教えに出遇い、その道を歩んでいても、私には真実の心などなく、嘘いつわりばかりの身であり、清らかな心などあるはずもないと。これは、自己嫌悪や自己否定のように聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。

宮城という先生は、暗闇に光が差し込むと周りが見えてくるように、阿弥陀様の光と出遇うことで、私の本当の姿が知らされるのだと言われています。暗闇の中は手探りですから、自分が握りしめた経験や知識がたよりです。そこに光が差し込むことで、自分が握りしめていたのは、一面や一部分だったことに気づかされる。それをすべてだと思い、世界を決めつけていた自分の生き方は、嘘いつわりの態度であったと知らされるのだと。

それは、阿弥陀様からの指摘や非難ではありません。私たちの嘘いつわりに執着する姿に気づかせ、世界の広さや深さを教えてくださる、温もりあるはたらきなのです。間違っていても、決して否定されない。「よく、気づいてくれたな」と、喜んでくださる。温もりに包まれているからこそ、素直にうなずくことができる。

つまり、親鸞聖人の「虚仮不実」という言葉は、自ら発せられた目覚めの言葉だと言えるでしょう。「何と小さなことに、こだわり、閉じこもっていたのか!」と気づき、素直に頭が下がった姿です。そこには、阿弥陀様の光に包まれ、安心して自分の愚かさを受け止めることができる生き方が思われます。

また宮城先生は、阿弥陀様との出遇いについて、こうも言われています。
「それがたとえ、今までの自分の体験によって培ってきたものの考え方を、その根底から否定し、ひっくりかえすようなものであっても、それが事実であるかぎり、事実を事実として受けとめ、生きてゆく勇気と情熱としてはたらくものなのです」と。
                           (『真宗の本尊』宮城)

とはいっても、なかなか素直にはなれませんよね。自分の愚かさを受け止めることは、やはり痛みをともないます。しかし、痛みを受け入れるからこそ開かれる世界があり、その勇気と情熱を与えてくださる世界があるのです。まさに「仏法の学びは痛みをともなう」と言えるのかもしれません。

おまけに「浄土真宗に帰すれども」と言われているように、私たちは、手放したつもりが、いつの間にか握りしめ、頭が下がったつもりが、また上がっている。そんなことを繰り返しています。そんな私たちだからこそ、励まし、導き、共に歩んでくださるのが、阿弥陀様なのだという安心感も、この言葉には込められているのでしょう。

そう示してくださった親鸞聖人の姿には、閉じこもっていた小さく狭い世界の窓が開かれ、深くて豊かな世界からの風が吹き込んできたような、爽やかささえ感じられるのです。■