2020(令和2)年5月





私の愛する広島カープのレジェンド(伝説の選手)に、黒田博樹投手がいます。2016年に引退した黒田投手は、低迷期のカープをエースとして支えた後、アメリカに渡りメジャーリーグで活躍しました。40歳になっても、メジャー球団から20億円とも言われる年棒で誘われましたが、「野球人生の最後は、カープファンの前で投げたい」と広島に帰ってきた、男気溢れる投手でした。





さて、この黒田投手。野球選手としては高齢の40歳にもかかわらず、なぜ高額のオファーがあったのでしょうか。評価のポイントは、安定感です。長いシーズンには調子の良い時も悪い時もありますが、黒田投手はいつも安定しているので、チームが勝つチャンスが増える。だから評価が高かったのです。

 その秘訣は、「調子に左右されずに、その日の調子の中でベストを尽くす」ことなのだとか。調子が良いからとガンガン行って打たれることもあれば、悪いなりに慎重に投げれば抑えられることもある。だから、その日の状態で何とかしていく。そうしないと、調子が良い時にしか勝てなくなるから。

これは私たちの生き方にも通じるのではないでしょうか。人生には、調子が良い時も悪い時もあります。調子に頼るだけでは、悪い時にはどうしようもなくなります。だからこそ調子に左右されず、あるもので、より良い人生にしていかなくてはならない。とても大切なことだと思います。


『大無量寿経』というお経に、「身自当之 無有代者(身、自らこれを当くるに、代わる者有ることなし)」という言葉があります。「私の人生は、誰にも代わってもらうことはできない」という意味です。思い通りにならなくても、不条理な状況におかれたとしても、誰にも代わってはもらえない。これは厳しい言葉です。しかし、これが人間の事実です。それは、「いじめられても、差別されても我慢しろ」ということではありません。いじめや差別は、尊さを奪うものであり、恥ずかしく悲しい行為です。しかしもっと悲しいことは、思い通りにならないからと自分の人生を投げ出し、貶めていくこと。自分で自分の尊さを奪うことです。うれしい時でも悲しい時でも、自分の人生はここにしかないのですから。
 何より、誰にも代わってもらえない人生ならば、誰に代わってもらわなくても良い人生にしていかなくてはならないでしょう。「あいつのせいで」「もし、こうだったら」と嘆いても、どうにもならない。ならば、あるものでベストを尽くすしかない。そこに心豊かな人生と、心貧しい人生の違いが生まれてくるのではないでしょうか。

 

近頃は、居酒屋のトイレに行くと、格言や名言が貼られているところが増えました。ある人が行かれた居酒屋のトイレには、こんな言葉があったそうです。

「俺はキムタクにはなれないが キムタクも俺にはなれない」

キムタクとは、元SMAPの木村拓哉さんのこと。男前で仕事ができて、カリスマ性があってお金持ち。元アイドルと結婚して娘はモデルで・・・と、誰もが憧れる存在です。しかし残念ながら、私はキムタクにはなれないのです。そこはあきらめ、受け入れざるをえません。

でも、「キムタクも俺にはなれない!」と言い切れる人生って、凄くないですか?そう言える人生は、きっと素晴らしいものだと思います。このような生き方を、中国の高僧・曇鸞大師は「自体に満足せるがごとく」(『往生論註』)という言葉で教えられました。この私の人生、これ自体で満足だと言える人間を育てるのが、仏法のはたらきなのです。





フランスの思想家レヴィ=ストロースは、「ブリコラージュ」ということを言われています。それは、有り合わせの道具や材料を使って、ものを作ることを言います。例えば、冷蔵庫にある材料で美味しい料理を作る。持ち合わせの道具や木切れで犬小屋を作る。「ちゃんとした材料や道具がなければできない」と嘆くのではなく、あるもので何とかすることをいいます。

私たちの人生は、まさしく「ブリコラージュ」するしかないのでしょう。「どうして、こんな環境に生まれたのか」「なぜ、私には才能がないのか」と嘆いても、私の人生は誰にも代ってはもらえない。ならば、あるもので何とかするしかありません。





ちなみに「ブリコラージュ」する人は、何か問題が起こった時に一度過去を振り返るのだそうです。問題を解決する為に、これまでの人生でヒントになるものはないかと振り返る。それは自分にないものを嘆くのではなく、「自分には何があるのか」を点検する作業です。過去や周りを見渡してみる。すると、過去が変わります。恥ずかしかった失敗が、大切な経験になる。鬱陶しいと思っていた説教が、尊いアドバイスになるのです。
 真宗大谷派の僧侶・金子大榮先生は、

 「人生はやり直すことはできない。しかし、見直すことはできる」

と言われています。それは、今まで無価値や無意味だと思っていたことに、新たな価値や意味が生まれてくるということでもあります。過去が見直され、世界の見方が変わる。今までとは、違う形での出遇いが生まれるのです。周りの人とも、亡き人とも。そして、仏様の教えとも。

うれしい時も悲しい時も、思い通りにならなくても、私の人生はここにしかありません。誰にも代わってはもらえないのです。ならば、調子に左右されず、あるもので、より良い人生にしていかなくてはならない。そう歩み出した時に、思いもよらない世界との出遇いが開かれるのだと、教えられるのです。■