2020(令和2)年7月



 ある中学校の先生から、とても興味深い話を聞きました。荒れた学校を立て直すには、まず何から手をつければ良いのか。その先生によれば、それは「靴を揃えることを徹底する」のだそうです。そんなことで、学校が良くなるのかと思いきや、これがとても効果的なのだとか。どうしてなのでしょう。


 高校野球の強豪校では、「ゴミ拾い」を日課に取り入れる監督が多いようです。中でも有名なのが、沖縄・興南高校の我喜屋優監督。ゴミ拾いや生活習慣を改めることで、就任三ヵ月後に24年ぶりの甲子園出場を果たし、2010年には春夏連覇を成し遂げました。
 また、「凡事徹底」(何でもないような当たり前のことを徹底的に行うこと)をスローガンに、2013年夏の甲子園で初出場初優勝を果たした群馬・前橋育英高校の荒井直樹監督も、名将と呼ばれる東京・日大三高の小倉全由監督、広島・広陵高校の中井哲之監督も、「ゴミ拾い」を重要視しています。

「ゴミを拾って、野球が上手くなるのか」と思ってしまいそうですが、日大三高の小倉監督は、「ごみ拾いは野球の上達にもつながるんです。ごみを拾うということは、あちこち周りをよく見ることです。そしてごみは小さいから、小さなことに気づけるようになる。いまグラウンドで起きている状況、細かなプレーまで見る目が鍛えられ、試合でのミスが減るからです」(『お前ならできる―甲子園を制した名将による「やる気」を引き出す人間育成術』小倉全由)と言われていますし、興南高校の我喜屋監督は、「五感を活性化させることで、小さいことに気づき、大きな成果が出せる。普段から小さいことができないと、サインを見落としカバーリングを怠る」「散歩でたばこの吸い殻を見て見ないふりをする人は、「おれは関係ねえ」とカバーリングに回らない。誰が捨てたのでもいいから拾わないと、試合にならない」「朝食のみそ汁やゴーヤーのおいしさを感じ、作ってくれた人に感謝の気持ちをもって残さない。そういう小さなことを感じられる男は、大きな仕事ができる」( 2010年8月26日 朝日新聞)と言われます。
 「ゴミを拾う」ことで、小さなことへの気づきが生まれ、それが野球への向き合い方につながる。五感が活性化されることで、自分を支えてくれる人たちの存在が見えてきて、一つひとつのプレーを感謝しながら大切にできるようになる。なるほどと、うなずかされます。

ならば、「靴を揃える」ことで荒れた学校が立ち直るのも、同様なのでしょう。生徒の荒れた心が、靴を揃えることで少しずつ整い、落ち着いていく。そこから、小さな気づきが生まれ、成長にもつながるのではないでしょうか。

 



お釈迦様の弟子に、周利槃特という方がおられました。愚かで、自分の名前も書けないほど記憶力も悪い彼に、お釈迦様は一本の箒を渡して「塵を払わん、垢を除かん」と唱えながら掃除をするように教えます。ひたすら掃除に明け暮れる中で、「落とすべきは、心の汚れだ」と彼は気づき、遂には阿羅漢の悟りを得たと言われます。まさに、「ゴミ拾い」や「靴を揃える」ことに通じるお話です (ちなみに周利槃特は、『天才バカボン』のレレレのおじさんのモデルとも、言われています) 。

掃除をし、身を整えることは、五感を敏感にし、感覚の精度を上げるのでしょう。それは野球や日常生活にも、そして信仰生活においても重要なことなのです。信仰とは、眼に見えない、耳には聞こえないけれども、そこに確かなメッセージやはたらきを感じることで成り立ちます。劣化した感覚に気づくこともなく、見えるもの、聞こえるものしか受け止められない人には、心豊かな世界と出遇うことはできません。

 

そう考えると、現代社会は「散らかしっぱなし」の時代であるような気がします。「いや、昔と比べて、ポイ捨ては少なくなったし、ゴミの分別回収も徹底している」と言われる方もあるでしょうが、そんな意味ではありません。

近頃は、「面白いことをしよう!」という人が増えました。しかし私は、「面白いこと」だけをモチベーションにしている人を、あまり信用できないのです。なぜならそんな人は、飽きてしまうと次の「面白いこと」に興味が移り、躊躇いもなく立ち去る人が多いので。そうして残された人たちが後片付けをする場面を、私は沢山見てきました。

学校や行政を批判する人がいます。そこに問題があるのなら、提起することはとても大切です。しかし、ヒステリックにわめきたて、悪者を作り、メディアを巻き込んで大問題にしても、本当の解決にはなりません。モチロン周りが頑なに聞く耳を持たない場合には、それも有効な手段なのかもしれませんが、一番大切なのは次の段階であるはず。問題の解決は、クールダウンし、丁寧に、落としどころを探しながら、コツコツ取り組むしかないのです。ヒートアップし、悪者を切り捨て、自分はスッキリしても、後に残るのはズタズタになった人間関係だけ。その後片付けは誰がするのでしょうか。

政治家もマスコミも、「やりっ放し」「言いっ放し」「報道しっ放し」がほとんどです。散らかすだけ散らかして、真摯に後片付けのことまで考えているようには、とても思えません。

やはり、一番尊いのは後片付けをする人なのです。目立たないところで黙々と取り組む人たちによって、社会は支えられているのです。にもかかわらず、そんな人たちへの敬いを見失ってはいないでしょうか。感覚が劣化し、心が荒れてはいないでしょうか。




 

 この文章を書きながら、散らかった机の上を眺め、少しでも後片付けをしようと思うようになりました。小さなゴミを拾う中で、改めて、自分がどれだけ散らかしっ放しで生きてきたかを知らされるのでしょう。

とはいっても、仏教は偏りや捉われを警戒します。掃除や後片付けに熱心になるあまり、潔癖になるのは行き過ぎです。目配りや気配りは、思いやりに繋がりますが、「汚いものが許せない」という思いは排他的になり、大らかさを失ってしまいます。それもまた、心が荒れているということなのでしょうから。■