2020(令和2)年8月




今月の言葉は、2018年9月15日に癌で亡くなられた女優・樹木希林さんの言葉です。樹木さんといえば日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を二度も受賞された名女優ですが、私の世代には、やはりドラマ『寺内貫太郎一家』(1974年TBS系列)のお婆さん役のイメージ。「ジュリーィィィ‼」と叫ぶシーンは今でも鮮明に覚えています。当時の樹木さんはまだ31歳。息子役の小林亜星さんよりも年下でした(その他、郷ひろみさんとのデュエット『おばけのロック』『林檎殺人事件』や、フジカラーのCMも印象深いですね)。





若い頃から老け役の多い人ですが、年を重ねるほどに魅力が増していかれた方でもありました。
「年をとるっていうのは絶対におもしろい現象がいっぱいあるのよ。だから、若い時には当たり前にできていたものが、できなくなること、ひとつずつをおもしろがってほしいのよ」
           (『別所哲也のスマートトーク』毎日新聞2014年10月31日)

という言葉のままに、見事に老いを受け入れていかれたのでしょう。
 アメリカの詩人ウォルト・ホイットマンの詩に
「女あり 二人ゆく 若きはうるわし 老いたるは なおうるわし」(『草の葉』)
という一節がありますが、まさに「老いたるは なおうるわし」を示してくださった方だと思います。

 

樹木さんは、2013年の日本アカデミー賞授賞式のスピーチで、全身が癌に侵されていると公表されました。その後も相変わらずの飄々としたお姿に誰もが驚かされましたが、それは2005年に行った乳癌の摘出手術以来、「死」と向き合ってこられた日々があったからではないか…、などと私は勝手に思いを巡らしています。

2009年のインタビューで樹木さんは、
「がんはありがたい病気よ。周囲の相手が自分と真剣に向き合ってくれますから。ひょっとしたら、この人は来年はいないかもしれないと思ったら、その人との時間は大事でしょう。そういう意味で、がんは面白いんですよね」
                    (『ゆうゆうLife』産経新聞2009年2月20日)

と言われています。じっくりと「死」と向き合われてきたからこそ、ひと時の掛け替えのなさが、ひとつの出遇いの尊さが感じられてくる。そんな姿に、「死」に向き合うことの大切さを教えられます。

 2019年に亡くなられた女優・市原悦子さんは「死を受け入れるということは、死ぬまできちんと生きるってことなのね」と言われたそうです。やはり俳優さんは、他人の「生」や「死」を演じることがお仕事なだけに、「死」を、そして「生きる」ということを深く考えておられるのでしょうか。
 私たちは、日頃「死」というものを考えず、遠ざけています。そのことで、かえって「生きる」ということもぼんやりとしているのかもしれません。






 室町時代に現在の本願寺教団の礎を築かれた、本願寺中興の祖・蓮如上人は、「後生の一大事」(『御文章』五帖目第十六通『白骨章』)ということを言われています。「後生」とは後に来るべき生涯のこと。死んだ後のこと。今生・現世に対して言われる言葉です。「一大事」とは最も重要なことを意味します。
 これを「死後が一番大事」と理解してしまうと、「生きる」ことがぼやけてしまいます。真宗大谷派の僧侶・宮城顗先生は、

「後生の一大事」という言葉が、どうも日常の私の生きていく上での問題というようには、なかなか思えなかったわけですが、よくよく考えてみると、「後生の一大事」を問うという形において、初めて私は自分の人生の全体を振り返る眼が与えられ、そして、自分の人生を問い直す、そういう心が呼び覚まされてきたのです。/私たちが「後生の一大事」を尋ねるということは、老・病・死という事実を受け止め、しかもなお、確かな歩みを歩み切っていける、そういう道を尋ねるということであったわけでしょう。
                         (『後生の一大事』宮城顗)

と言われています。私はどこに向かって生きているのか、どこへ帰っていくのかという「人生の方向」や「よりどころ」を問うことが、生きる態度を改めて問い直し、確かなものにするのだと。それは、「死んだら終わり」と考える人生とは、まったく違うものになるはずです。



 蓮如上人


 樹木さんは、このようなことも言われていました。
「先に死ぬ人が「自分は死ぬからあとはどうでもいい」っていうのは違うと思うの。これだけ地球が壊れている中で、人間が生きていかないとならない。それは混沌としたものになるけれども、でも混沌としたなかから新たなものが芽生えることを期待するしかないですよ。「明日、地球が滅ぶとも、きょうりんごの木を植えよう」ということばがあるの。そこに期待していかないと。」(『別所哲也のスマートトーク』毎日新聞2014年10月31日)

「明日、地球が滅ぶとも…」とは、マルティン・ルターの言葉だと伝えられています。この言葉自体も、そしてこの言葉に共感し生きようとする態度も、なんと豊かなのでしょうか!
 また、入院中の9月1日に、窓の外を眺めながら「死なないで。どうか生きて、命がもったいない」と、繰り返し呟いておられたそうです。娘の也哉子さんが不思議そうに尋ねると、「二学期が始まるこの日に、いじめや引きこもりで暗闇から抜け出せない子どもたちが、いっぱい自殺している。この国では、9月1日は子どもがいっぱい死ぬ日なのよ」と。也哉子さんは「死が目前になった自分と、未来ある子どもたちが自死するという対比にもどかしさを感じたんでしょうね」(『週刊朝日』2019年9月20日号)と言われています。

 自分の「死」と向き合う中で、他者を想い、未来を想う。これこそまさに、「死ぬまできちんと生き」ようとする姿だと言えるでしょう。樹木さんの死生観・宗教観について、私はよくわかりませんが、やはり樹木さんなりの「後生の一大事」の解決があったからこそ、このような言葉や生き方が生まれてきたのだと思います。

 死を「いつか来るものではなく、いつでも来るもの」として受け入れ、人生の方向とよりどころである「後生」を確認する。それは現在の生き方を問い直し、確かなものにしていく作業なのです。この、人生における「一大事」を解決することが、「死ぬまできちんと生き」ることにつながるのだと教えられるのです。■