2021(令和3)年10月




「コペルニクス的転回」という言葉があります。物事の見方が180度変わるような、発想の転換を譬えたものです。コペルニクスとは、人の名前。このコペルニクスさんは、15~16世紀のポーランドの天文学者です。それまで地球を中心に太陽や星が回っていると考えられていた天動説に対し、太陽を中心に回っている星の一つが地球だという地動説を主張した方なのです。




 どこを中心としているのか。それによって、世界の受け止め方は大きく変わります。自分中心に世界が回っているという考え方と、世界の中に自分があるという考えでは、見える景色も違います。自分の力で生きているつもりでいたのが、周りの人たちによって生かされていたと気づかされたら、人生そのものが大きく変わってくるはずです。
 このように、これまで当たり前だと思っていたことがひっくり返り、世界が違って見えるような気づきを、コペルニクス的転回と言うのです。

 

浄土真宗は、「他力本願」の教えです。しかし巷では、「他力本願」というと「自分の力でなく、他人の力によって望みをかなえようとすること」「人まかせ」の意味に受け止められています。しかしこれは、大きな誤解です。自分中心に考えるからこそ、こんな誤解が生まれたのでしょう。
 「他力」とは、阿弥陀様の「利他力=利他のはたらき」のことです。自分中心に考えるから「他人の力」と思ってしまうのでしょうが、浄土真宗では阿弥陀様を中心に考えます。つまり、「自」である阿弥陀様から「他」である私に、「利他のはたらき」がかけられていることをいうのです。
 そもそも「本願」とは、自分の願いではなく、あくまでも阿弥陀様の願いです。迷いを迷いと気付かずに、さらに迷いを深めている私に、「あなたを浄土に生まれさせ、敬われ、尊ばれる仏にさせよう」という阿弥陀様の願いが、私に届けられている。阿弥陀様の「利他」のはたらきが躍動し、導いてくださっている。これを「他力本願」と言うのです。そのことに気づき、目覚めた感動の中に歩むことが「他力」の生活なのです。







 自分を中心に物事を見るのと、阿弥陀様を中心に見るのでは、まったく違います。自分中心で考えるから、他力は「人まかせ」の意味になるのです。しかし、阿弥陀様中心で考えれば、この私がどれだけ大切に思われているかが知らされてくる。同時に、どれほど深い迷いの中にいたのかにも気づかされる。言葉の意味も、見えてくる景色も、まったく違ってきます。

 「拝むということは、拝まれていることに気づくこと」(東井義雄)という言葉があります。私が拝むよりも先に、阿弥陀様から願われ、拝まれていたという気づきが、人生の受け止め方を違うものに変えていく。まさに、コペルニクス的転回です。
 私たちの先輩方は、阿弥陀様を中心にして人生を歩まれたのです。だからこそ、恵まれていること、いただいていること、そして恩ということに敏感になられたのだと思います。そんな世界と出遇うからこそ、「生かされていた」と感動し、感謝し、手を合わせる身に育てられるのだと教えられるのです。そうなると、「自分の力だけで生きている」などと、ふんぞり返ることはできません。

 

 私たち浄土真宗本願寺派では、布教使(法話の専門家)養成のための学校があります。そこでは百日間、二人部屋の寮生活。気の合う二人だと楽しい時間でしょうが、人間には相性というものがありますから、気の合わない相手と同部屋だと地獄のような日々にもなりかねません。実は先日、気の合わない相手と百日間、同部屋になった人の話を聞いたのです。本当に、つらい日々だったようです。まぁ、相手も同じ思いで過ごしていたのかもしれませんが…。

その方は、寮生活を終えられて、言われたそうです。「あんな奴とだけは、一緒にお浄土に往きたくない」と。この気持ち、よくわかりますよね。私もそんな状況なら、きっと言ってしまいそうな言葉です。

 でも、この話を聞きながら、私はある先輩の言葉を思い出していました。私たちお坊さんも、人間ですから愚痴も出ます。悪口を言うこともあります。先輩もお坊さんですが、モチロン愚痴も悪口も言われます。しかし最後には、いつもこう言われるのです。「あんな奴とでも、一緒にお浄土に往かなくてはならんのだなぁ」と。

 「あんな奴とは、一緒にお浄土に往きたくない」

 「あんな奴とでも、一緒にお浄土に往かなくてはならない」

 よく似た言葉です。でも、この二つの言葉の中身は全く違います。前者は、阿弥陀様のお浄土という言葉を使いながらも、実は自分の思いが中心になっています。判断基準は、自分の好き嫌いなのです。私たちは自分中心から、なかなか抜け出せないのですね。気づけば、自分中心でものを考えてしまう。しかも自分が正しいと思っているから、そこにはブレーキはかかりません。

それに対して後者の言葉は、どこまでも阿弥陀様を中心とした言葉です。自分の好き嫌いは二の次になっています。モチロン私たちは人間ですから、嫌いな人もいるし愚痴も出る。そんな時、自分中心から、阿弥陀様を中心に考えてみる。そこに「私の目には、嫌なヤツにしか見えないけれども、阿弥陀様から見ればどうだろうか。私もアイツも、共に願いをかけられ、拝まれている仲間なのではないか」という見方が生まれてくる。視点が変わり、ブレーキがかかり、景色が変わる。そして、生きる態度さえも変わることを教えられたのです。

 コペルニクス的転回のように、自分中心から阿弥陀様中心の生き方に変わる。これを「他力」の生活というのです。気がつけば、ついつい自分中心の考えに陥りがちな私たちですが、手を合わせ、振り返る中で、また新たな気づきがいただける。そんな阿弥陀様中心の生き方をされた人々の歴史に、私も導かれ、育てられ、生かされています。■