2021(令和3)年11月




 

「私はとにかく鈍やったんです。それで鈍やから、自分でいうたら可笑しいけれど、今のように大成したんやな。器用は上すべりしてしまう。器用はあかん。器用であれば、私らの仕事では上すべりしてしまって、出来てないのに出来たと思うてしまうんですな。チョイチョイとやって出来てしまうのが一番いかん。私は学校でも学生をみたし、後輩もみたけれど、器用なものはだめなんですな」。(『人生を考える』藤沢量正)

 人間国宝で、京都市立芸術大学長を勤められた陶芸家の近藤悠三さんは、このように言われています。しかし近頃は、「すぐに役に立つ」人やものが重宝される時代です。インターネットで検索すれば簡単に情報が入り、「3分でわかる」「5分で泣ける」といった言葉も、よく聞くようになりました。短時間、低コストで、最大の利益を得ようとする。頭だけで計算し、無駄を省き、最短距離を行こうとする。そんな、「チョイチョイとやって出来てしまう」器用な人に、多くの人がなろうとしている。近藤悠三さんの言われることとは、真逆の時代だと言えるでしょう。ちなみに近藤さんのこの言葉は、今から四十年以上前の対談で語られたもの。では近藤さんの考えは、時代遅れ、時代錯誤なのでしょうか。私には、そう思えないのです。いや、この言葉にこそ、とても大切なことが込められているのではないでしょうか。

              
                 近藤悠三さん



  テレビでお馴染みのジャーナリスト・池上彰さんは、東京工業大学リベラルアーツセンターの教授でもあります。「リベラルアーツ」とは、「人間としての教養」のことを言います。東京工業大学といえば日本最高峰の理工系総合大学ですから、専門的なことだけを教えるのかと思いきや、同時に歴史や文学、人類学や心理学などの「教養」を重視しているのです。

 世界でも屈指の名門校、アメリカのマサチューセッツ工科大学も同様で、「社会に出てすぐに役に立つ学問は教えない」のだとか。なぜなら、先端的な科学技術・情報技術の分野は、それまでの知識は5年も経てば古くなる。大学で教えた時には最新でも、すぐに役に立たないものになる。だからこそ「科学が進んでも、常についていける。さらに新しい知識をきちんと身につけ、自ら開発していく力をつける」ために、人間としての基礎となる「教養」を教えるべきだと考えられているのです。

 「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」(『読書論』小泉信三)という言葉があるように、目先のことに捉われてしまうと、幅広くものを見ることができなくなります。そこで、一見無駄や遠回りのようにみえる「教養」をじっくりと学び、世界を深く見る目を養う。専門的な学問と、生涯にわたり糧となる学びを関連づけて、人間としての基礎を身につける。それが視野を広げ、思い込みから自由(=リベラル)になるための技(=アーツ)を手に入れることに繋がる。これが「リベラルアーツ」を重視する考え方なのです。
              (伊丹十三賞第5回受賞記念講演会 池上彰氏講演会)


               


 私たちの社会は、合理的という名の下に無駄を省き、最短距離を行くことを良しとしています。そうなると、学びを深めることよりも「すぐに役立つこと」「すぐに結果がでること」が優先されるようになる。器用な人ほど、それができてしまうので流されやすい。いつしか人間としての基礎を学ぶことが疎かになり、本質が見失われ、近藤さんの言葉で言えば「出来てもないのに、出来たと思う」「上すべりしてしまう」ことになってしまいます。

 しかし、不器用な人はそうはいきません。簡単に答えを出せないからこそ、こつこつと時間をかけて向き合わざるを得ない。じっくりと基礎を身につけるしかない。器用な人から見れば無駄に見える失敗も、回り道も、足掻く時間も、自分そのものを成長させる大切な経験になるのでしょう。

 

 同じくリベラルアーツセンター教授の伊藤亜紗さんは、自分の大学での役割を「学生に〝偶然〟を教えることだ」と言われます。理工系では計画通りに作る、作ったものが思い通りに動く、つまり「コントロール」が重要となります。しかし、そこばかりが重視されると、人間がすべてをコントロールできるかのような錯覚に陥りかねません。伊藤先生の専門はアートです。アートの場合は、作る過程で見つかる思いがけない発見、「偶然」の要素が大切にされます。そこから、人間にはコントロールできない領域があることや、自然や生命への畏れを学んでいくのです。

また、科学は客観性が重視されますが、アートは主観性が重視されます。作品の見え方は、見る人によって違うのが当たり前。つまり、アートを通して「自分の見方がすべてではない」ことへの気づきや、多角的なものの見方、他者への尊重と共感を育もうとされるのです。(東京工業大学リベラルアーツセンター 教員インタビュー)

 コントロールと偶然、客観性と主観性。どちらも大切なことです。私たちの社会生活は、発電所・道路・鉄道などのインフラが管理・計算・コントロールされることで成り立っています。科学的な判断に、主観を交えてはなりません。しかし、社会の問題はさまざまな要因が絡まり合い、そこに暮らす人間はそれぞれ見方や価値観が違う。自然は人間がコントロールできないし、思いがけない「偶然」が新たな発見を生むこともある。「自分の考えがすべてではない」という謙虚な姿勢を持つことで、思い込みから自由になれる。それが成長につながり、学びを深めることになるのです。

 それは近藤悠三さんにおいても、そうなのでしょう。なぜなら陶芸作品とは、長年培われた技術でコントロールするものと、「偶然」との中で生み出されるもの。陶芸にこつこつと向き合う中で、謙虚な態度と豊かな人間性を養われ、それがまた作品に反映されたのではないでしょうか。

              


真宗大谷派の僧侶・金子大榮先生は、友人である謡の名人から、このような話を教えられたそうです。
 謡の場合も、二、三年で上達する器用な人は案外伸びず、不器用でこつこつ稽古している人が本物になっていくことが多い。なぜなら器用な人は、褒められると得意になり人に聞かせようとする。天狗になる。これが一番困る。だから本物になるためには、よき師匠につくことが大事。自分の「至らなさ」を教えられ、基礎からこつこつ稽古をする。そこでまた、師匠から至らないところを指導される。これを繰り返していく。

 この謡の名人は、このように師匠について二、三十年稽古する中で、いつしか自分に教えることのできる先生が周りにいなくなってしまいました。そこで、日本一と言われる師匠のところに伺い、聞いてもらうことにしたのです。するとその師匠から、「あなたは謡をうたいなされる場合、その謡を自分が本当に聞いておられるのですか。それとも人に聞かせようというお心ですか。それから人さまのよい謡をお聞きなさることがおありでしょうか」と言われました。その方は、この言葉に大きな衝撃を受けたそうです。振り返ってみると、いつの間にか人に聞かせようとしていて、聞こうとする心を見失っていたと。

 これは仏道の歩みにも通じるのだと、金子先生は言われます。「一番大事なことは、お聞かせにあずかることです。〝聞く耳を養う〟、至らない私を知ることがます一番大事なのだ」。そして「よき人にあう。一仏に遇い、一仏に帰依するということは、諸仏に遇い、諸仏に帰依することで、どんな方にも頭の下がる世界をいただくことが大事である。この心をいただけば、なにもかもが先生になってゆく」のだと。
                      (『み仏の影さまざまに』西元宗助)

 

おかしな言い方かもしれませんが、本物と言われる人ほど、自分が本物ではないことを知っておられるのではないでしょうか。「すぐに役に立つこと」に飛びつかない。自分の「至らなさ」を知り、「聞く耳」を養う。身につけたと思っても、気がつけば見失っているからこそ、自分を振り返りながら歩んでいく。そこには、近道などないのでしょう。まさに、「こつこつがコツ」だと教えられるのです。

そんな人たちの歩みと出遇うと、自分がいかに偽物であるかを思い知らされます。その気づきがまた、私を育ててくださるのです。■