2021(令和3)年12月



今年一年も、あっという間に終わろうとしています。振り返ると、「あぁしておけば」「こうしておけば」と、未練ばかりが残る一年だったのではないか。毎年、そう思っているような気がします。

 「未練」には、二つの語意があるようです。一つは、「執心が残って思い切れないこと。あきらめきれないこと」をあらわします。では私は、何をあきらめきれないのか。何に執着しているのか。その中身を確認しておかなければ、後悔しなくても良いことをくよくよ悩んでしまうことにもなりかねません。

仏教は、「執着」とらわれる心を警戒します。「こうしたい」「こうあらねばならない」という思いは向上心を生むこともありますが、同時に自分を縛り付け、決めつけ、苦しみを生むことにも繋がります。私は一体何を求めていたのか。それを振り返ることも、とても大切なことだと思います。

 

 泉谷閑示という方がおられます。泉谷先生は精神科医ですから、日々、心を病み、自虐的になってしまった人たちと接しておられるのです。「自分は価値のない人間だから死んだ方が良い」「生きているのは迷惑かけているだけだ」「生きている意味がわからない」。そんな言葉を聞く中で、泉谷先生は、人生の「意義」と「意味」について考えるようになったのだそうです。

 泉谷先生は、「意義」とは、「有意義な時間を過ごそう」という言い方をするように、「価値」を生み出すもの。平たく言うと、「お金になる」「知識が増える」「スキルが身につく」など、目に見える、役に立つ、数字で表されるものだと言われます。





 それに対して「意味」とは、味という字で表されている通り、それぞれが「味わう」ものではないかと言われるのです。(『仕事なんか生きがいにするな~生きる意味を再び考える』泉谷閑示)

「味わい」は、人それぞれ違います。高級懐石が好きな人もいれば、B級グルメが好きな人もいます。どちらが良いかなんて、人それぞれ。比べるものではありません。高ければ良いわけでも、安いからダメということでもありません。でも、やはり一番ホッとするのは家庭料理ですよね。それも各家庭によって味はまったく違いますし、どちらが上とか下とか比べようがありません。

人生の「味わい」についても同じです。人それぞれ、比べようがない。数字で比べることなどできないのですから、それぞれが深く味わうしかないのでしょう。

 

私の先輩のお母さんは、料理があまり上手ではない方だったそうです。お味噌汁も薄い味付けで、お父さんと先輩は、いつもそれを我慢して飲んでいました。そのお母さんが亡くなられた時のことです。お葬式が終わり、お父さんが先輩のところに来られて、ポツンとつぶやかれました。「あの、薄っすい味噌汁、もう一度飲みたいなぁ…」と。先輩も「ホント、そうだなぁ…。もう一度飲みたいなぁ」と思ったと言われます。

美味いとか不味いとか、高いとか安いとかではなくて、掛け替えのない「味」がある。誰が何と言おうと、私にとって大切な「味」があるのです。それは私たちの人生も同じなのです。誰とも比べようがない、掛け替えのない人生がここにある。それを深く味わう中で知らされることこそ、人生の「意味」なのでしょう。





ところが、人生を深く味わうには、こちらが育てられなければわかりません。ほのかな香りや、豊かな苦味、そこに込められた想いや温もり。それは、味わう側が育てられなければ、わからないのです。しかし私たちが生きる現代社会は、深く味わうどころか、数字や、目に見える「意義」ばかりを追い求めているのではないでしょうか。そんな社会が、「生きる意味」を見失う人々を生み出しているのではないでしょうか。

実は、「未練」の二つ目の語意は、「熟練していないこと。また、そのさま。未熟」というものなのです。つまり、私が悔やむべき「未練」は、「有意義な時間が過ごせなかった」「お金や知識を得ることができなかった」といった目に見えることではなく、目に見えないものを深く味わうことができなかった、この私の未熟さではないかと知らされるのです。

 

昔から、仏法を「味わう」と言います。仏様の教えは、私たち凡夫には量り知れないものですから、「何冊本を読んだから」「何年勉強したから」わかるものではありません。味わい尽くせるようなものではないのです。しかし、学ぶほどに「もっと深かったのか!」「もっと広かったのか!」「薄っぺらな考えで、決めつけていたなぁ」と、私のものの見方の小ささを知らしめ、私を包む世界の広さや、人生の深さに気づかせてくださる教えなのです。

つまり、仏法を深く味わうとは、人生を深く味わうということでもあるのです。だから、一鍬一鍬、人生を耕し豊かなものにしていくように、人生の場面、場面で、生活のその場、その場で、味わうしかない。それは同時に、深く味わう身へと育てられることでもあるのです。

 仏法は、味わい尽くせなくても「未練」が残るものではありません。この私を包む世界の大きさは、私が知ろうが知るまいが、変りはないのですから。しかし、後悔しなくても良いことをくよくよ悩む私に、「そんな未練にこだわっても、虚しいだけだ」と、本当に求めるべき世界を示してくださるのです。■