2021(令和3)年3月





「原因があるから結果があり、結果には必ず原因がある」というのが、仏教の基本的な考え方「因果の道理」です。仏教では、この道理によって迷いを解決していきます。そしてこの考え方は、私たちの日常生活にも「因果応報」「自業自得」などの言葉として、なじみ深いものになっています。

しかし、注意しなくてはなりません。「まいた種(原因)が実る(結果)」。その間にあるものに思いを馳せることがなかったら、逆に迷いが深まり、苦しみが増していくことになりかねません。
 新型コロナウィルスの猛威が世界を覆う中、「感染する人は自業自得」と考える人が、他国と比べて突出して多いのが日本なのだそうです。でも、どれほど気をつけても感染する場合はありますし、まったく気にせず暮らしても感染しない場合もあります。短絡的に因と果を結びつけることは、人を追い込み苦しめることにも繋がるのです。

世界の貧困や不公正など平和と人権に関わる問題に、仏教精神に基づき宗派を超えて取り組むアーユスというNGOがあります。そのスタッフだった三村紀美子さんは、以前は外資系企業に勤務されていました。そこでは「これをこうすればこうなる」と理詰めで考える、合理的で効率的な方法が重んじられていました。すると仕事をしていくほどに、色んなことを背負い辛くなったと言われます。なぜなら、うまくいかないと「自分に原因がある」と思ってしまうから。巷で言われるところの自己責任論です。

考えてみれば、「自己責任」と言いながら、責任を押し付け合う時代です。直接関わった人にすべての責任が押しつけられる、無責任な社会になりました。個人的な問題なのか、組織的な問題なのか。個人的な問題であったとしても、その裏にはどんな背景があるのか。みんなが当事者として分析すれば、色んな改善点が見えてくるはずなのに、「自己責任」の一言で責任を押しつけてしまう。こうなると、真面目な人であるほど自分を責めてしまいます。ところが三村さんは、アーユスのスタッフになり仏教と出遇うことで、見方が変わったのです。

仏教の「因果の道理」とは、原因から結果へ一直線で結ばれるものではありません。「因」とは、「因縁」のことです。直接的な原因である「因」と、間接的な原因や条件である「縁」のことをいいます。つまり、一つの原因だけではなく、様々な条件が関係し合って結果がある。人も社会も事業も、様々な縁で繫がっている。そう知らされると、気持ちが楽になったというのです。もちろん、安易な責任転嫁ではありません。すべてを自分が背負う必要も、自分をダメだと責めることもしなくていい。みんなで一緒に責任を背負っていける。そんな教えと、そしてその道を歩む人たちと、出遇えたからなのです。

原因から結果へ一直線に結びつけることを、「因果の道理」とは言いません。種も、まきさえすれば実るわけではありません。そこには適度な日照時間や肥料が必要で、自然災害がないことなど、様々な「縁」がなければ実らないのです。


 


思想家で武道家の内田樹先生は、近頃は「植物的時間」が見失われてしまい、私たちは「工学的時間」の中で生きていると、指摘されています。

人類史のなかで農業が主な産業だった時期は長い。だから昔から「植物的時間」で物事が考えられていた。学校教育でも、子どもたちの成長は農業の比喩で語られていた。「種をまき、水と肥料を与え、日に当てて、風水害や病虫害から守ると、収穫期には果実が実る」という言い方や、学級通信も「わかば」「みのり」というようなタイトルだった。幼稚園のクラス名も「うめ組」「ひまわり組」など植物の名前が使われていた。植物的時間というのは、基本四季のサイクルだからのんびりしたものだったし、親や教師が管理できるのはせいぜい全体の二~三割。あとは自然の力に任せるという感覚があった。自然とは本来、人間の力ではコントロールできないものだから。





ところが産業構造が変わり、工業的な比喩が用いられるようになった。学期ごとに到達目標が数値的に示され、「納期」と「仕様」に合わせて「生産」がなされなければいけないと考えが広がった。教育の現場でも、厳しくスケジュールが決められ、「シラバス通りの授業を」とか「学士号の質保証」とか「PDCAサイクルを回す」といった工業用語が使われるようになり、まるで自動車やコンピュータを作るように工程管理と品質保証がうるさく言われるようになった。

つまり、四季のサイクルを基準にした「植物的時間」が棄てられ、納期と仕様に合わせて工業製品を生産する「工学的時間」が採用されることで、すべては人間が管理できるということが前提になったのだといわれるのです。(文春オンライン 内田樹インタビュー「サル化」が急速に進む社会をどう生きるか?)

確かに、「納期」と「仕様」に合わせて「生産」がなされなければいけないという考え方は、教育に限らず、ここ数十年で急速に広まっていったように思えます。スケジュールが先に決められ、スケジュールに人間が合わせなければならない状況が、至るところに見受けられます。そして、スケジュールについていけない人間は、不良品扱いされ、無能とされ、不要とされていく時代です。まさに、スピードを出して高速道路を走れる者だけが生きることを許されるかのように。

でも、考えてみれば、田んぼの畦道をのんびり歩くのもひとつの生き方でしょう。しかしそんな生き方には「落ちこぼれた敗者」という劣等感が深く刻み込まれていく。そんな呪いのような考え方に苦しめられる人は多いのではないでしょうか。

内田先生は「人間は生身の生き物であって、缶詰や乾電池じゃない」といわれます。当たり前の話です。人間も自然の中に生きているのですから、すべてをコントロールするなど無理な話です。

 



種をまくこと(因)だけではなく、様々なはたらきの中で(縁)、ようやく実はなるのです。ならば、誰か一人の手柄でも、誰か一人の責任でもありません。すべてのものは繋がっているのですから、みんなで喜び、みんなで背負っていくものなのでしょう。しかし、「すべて人間が管理できる」という偏った見方(種)が安易な自己責任論(実)を生み、様々な縁によって強化され、大きな苦しみと迷いを実らせていることは事実です。

三村さんは言われます。「合理的の理とは、凡夫の理にすぎないのかもしれない。仏教の方が本来の意味で合理的、理に適っている気がする」と。私たちが日常的に使っている合理的とは一体どんなものなのでしょうか。まずは、そこから考えてみる必要がありそうです。■