2021(令和3)年8月


今月の言葉は、悲しみを否定するものではありません。悲しみとは、とても大切なものですから。何より、亡き人を大切に思っているからこそ悲しいのです。大切に思っていなかったら、悲しむこともありません。

近頃は、ゆっくりと悲しむことが、許されなくなってしまったように思います。スケジュールが優先され、人間がスケジュールに合わせて生きていかなければならない時代です。悲しみを尊重することもなく、「いつまで引きずっているんだ」「早く、切り替えて」と言わんばかりにプレッシャーがのしかかってくる。ゆっくりと、じっくりと悲しみを味わうことができない時代になってしまいました。そして、葬儀や法事でさえも、スケジュールをこなすように進められています。

精神医学・精神分析の基礎を築いたフロイトは、「悲哀の仕事」ということを言っています。大切な人を失った悲しみを、きちんと悲しむことができないと、人間は精神に支障をきたすのだと。それはそうでしょう。大切な人だから、悲しいのです。「悲しむな」とは、「大切な人を大切に思うな」ということと同じです。そして、悲しめないということは、大切な人を大切に思えなくなっているということなのですから、まさに精神的に支障をきたしているということでもあるのでしょう。

作家の柳田邦男さんは、フロイトの「悲哀の仕事」を受けて「悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め」るものだと言われています。悲しみを通すからこそ、見える世界があるのだと。悲しみには大切な仕事があるのです。

もちろん、悲しみ方は人それぞれです。号泣する人もいれば、どう表現していいのかわからなくて呆然となる人もいます。涙を流すことだけが、悲しむことではありません。表向きには冷静であったり、明るくしっかりしていても、内面は悲しみでいっぱいな人もいます。外見だけで、周りの者が判断することなどできません。それぞれの悲しみを尊重し、寄り添うしかないのです。

 

私の尊敬する、真宗大谷派の僧侶・宮城顗先生は、「失った悲しみの大きさは、与えられていたものの大きさである」と教えてくださいました。私はお通夜の席で、いつもこの言葉をご紹介させていただくのですが、本当に多くの方がうなずかれます。

大切な人を失った悲しみの中で、共に過ごした時間を振り返る。その中で、「あんなことも」「こんなことも」と、たくさんのものをいただいていたことに気づかされる。いただいたものに気づかされるからこそ、感謝できる。悲しみを通すからこそ、学び、気づかされ、開かれる世界があるのです。

しかし悲しむとは、同時につらい時間でもあります。そのつらさから目を背け、「こんな思いをしたくない」「悪いことが、続くのは嫌だ」という方向に行くと、亡き人を遠ざけることにもなりかねません。

また時には、悲しみのあまり「あの時こうしておけば」と自分を責めてしまうこともあるでしょう。それが気づきや学びに広がらず、ただ悲しみに留まってしまうのであれば、深まることにはならないのです。




我が子を自死という形で亡くされ、その悲しみの中で『歎異抄』に出遇い、親鸞聖人の教えに歩まれた作家の高史明さんという方がおられます。高さんには、東京で高校の先生をしておられる友人がありました。その方のお母さんは、故郷の鹿児島で一人暮らし。女手一つで育てられたこともあり、母親思いの方だったので、夏休みになる度に家族で鹿児島に帰り、「お母さん、東京に出て来ないか。一緒に暮らそう」と言われていたそうです。

そんなある夏の日、鹿児島は大雨でした。がけ崩れが起こり、その方の乗った列車が巻き込まれたのです。後には、小学生のお子さん二人と奥さんが遺されました。

その後、高さんが鹿児島に行かれた時、お母さんが訪ねてこられ、「どうして、あの子たちが言うように、東京に行かなかったのか。私が行っていれば、あの子が死ぬこともなかっただろう。私が行かなかったばっかりに」と、自分を責めるように言われたのです。

そこで高さんは、あえて、こう言われました。

「いまのその悲しみは、お母さまの立場から亡き子を見ているときの悲しみです。亡き子の方から見られていない。仏さまはお母さんに、どういうお母さんであって欲しいと願っておりましょう。その仏さまからのまなざしを抜きにしては、愛別離苦の悲しみの中に仏さまの智慧を学ぶことはできないのです」と。(『死に学ぶ生の真実』高史明)

 

悲しみを通して、亡き方から与えられていたものを深く味わっていく。そして今もなお、仏様と成られて私を思い、願ってくださっている亡き方と出遇い直していく。そこに、悲しみが深まり、改めて感謝の思いが生まれてくるのではないでしょうか。もちろん、すぐに切り替えることはできません。ゆっくりと、しみじみと時間をかけながら味わうしかないのでしょう。

そこにまた、死さえも亡き方からの贈り物といただける世界が開かれていくのです。人間は必ず死ななくてはならないという厳粛な事実。だからこそ、今ここにある出遇いの尊さ、有り難さ。そして、私たちはどこに向かい、どこに帰っていくのかという問い…。

別れの悲しみを通して、大切なことに気づき「あぁ、亡き方が仏様に成られて、教えてくださったのか」といただけた時、亡き方を仏様と仰ぎ、また別な形で共に生きていく。そんな生き方が開かれていくのだと、教えられるのです。■