2021(令和3)年9月





ある方が、タクシーに乗っておられた時のこと。ラジオから大学の先生の、こんな声が聞こえてきたというのです。

「皆さん、今日は桜をご覧になりましたか?」

もう七月も始まろうかという暑い日でした。「この人、何を言っているのか」と不思議に思いながら聞いていると、その先生は「季節外れの変なことをたずねる人だと、皆さんお思いになられたでしょう。しかし、桜は花を咲かせている時だけが、桜ではないのですよ。花満開の時も、葉が生い茂っている時も、その葉を落としている時も、つぼみをつけている時も桜です。桜はずっと桜です。今日も、桜をご覧になってください。懸命に生きる桜を感じてください」と言われたのです。(『大乗』2020年6月号「連研ノートE+」加藤真悟)

考えてみれば私たちも、花満開の時だけが人生ではありません。花が散っている時も、悲しみの日々も、落ち込んでいる時も、そのひと時ひと時が人生の大切な時間です。花が散った時でも、私を認めてくれる人がいる。どんな私でも、私の人生を見守っていてくれる人がいる。そんな人がいるかいないかで、人生は大きく違って見えるのではないでしょうか。





  2020年8月、俳優の渡哲也さんが亡くなられました。渡さんを「兄貴」と呼び、五十年近く友情を育まれたのがタレント・みのもんたさんです。みのさんは、「渡さんは、芸能人とかなんとかじゃなく、人間として付き合ってくれた。僕が芸能の仕事でもてはやされている時も、一人になっても付き合ってくれた人。やさしくて、男らしくて、実のある人でした」と言われていました。(デイリースポーツ2020年8月15日)

みのさんは、『おもいッきりテレビ』『朝ズバッ!』といった情報番組や、NHK『紅白歌合戦』の司会を務めるなど、一時期はテレビで見ない日がないほどの人気者でした。ところが、セクハラ疑惑騒動や息子さんの不祥事で叩かれ、仕事は激減。近頃は、ほとんど見ることがありません。人気絶頂で花満開の時には色んな人が近づき、もてはやしますが、落ち目になり花が散ると雲の子を散らすように去っていきます。
 しかし渡さんは、どんな時でも付き合ってくれた。肩書きではなく、人間として、一人の友人として寄り添ってくれた。みのさんは、そんな人と出遇えたことを感謝しておられたのです。
 花が咲いている時も、咲いていない時も、調子が良い時も、悪い時も、一人の友人として、一人の人間として付き合ってくれる。認めてくれる。受け止めてくれる。そんな人がいるかどうかで、私たちの人生は、まったく違うものになります。






しかし、そんな友だちや家族であっても、人間である限り必ず別れなくてはなりません。みのさんにとっても、大切な渡さんを亡くされた喪失感や虚しさは、本当に大きなものだと思います。
 そんな悲しい事実を抱えている私たちを、生と死を超えて共にいてくださる方がある。花咲く時も、散った時も、いつも支えてくださる阿弥陀様という仏様がおられるのだと、親鸞聖人は教えてくださいました。そして、阿弥陀様のお浄土に生まれられた亡き方も、仏と成り私たちに寄り添ってくださっているのだと。


 『大無量寿経』は、阿弥陀様の本願(根本の願い)が説かれた、浄土真宗では最も大切にされるお経です。このお経がどのような精神性をもって説かれるのかを表す場面に、「もろもろの庶類のために不請の友となる。群生を荷負してこれを重担とす」という言葉があります。「不請」とは、請わなくても、お願いしなくてもという意味です。つまり、私がお願いしなくても、気づかなくても、忘れていても、自ら進んで友となってくださる。共に苦しみを背負ってくださる。それが阿弥陀様のお心なのだと。
 それは、私を一切否定せず、無条件に受け止めてくださるはたらきでもあります。その阿弥陀様のお心とはたらきが「南無阿弥陀仏」のお念仏に込められて、私たちのところにまで届けられているのです。
 私たちの先輩方は、お念仏を称え、阿弥陀様のお心とはたらきを受けとめて、「みんなに見捨てられて、一人になっても、阿弥陀様はわかってくださる」「一人であっても、独りではない」「自分が自分を見捨てても、この私を見捨てない世界がある」「ならば、この人生を投げ出すわけにはいかない」と、阿弥陀様と共に人生を歩まれました。そんな人たちの歴史を、私たちはしっかりといただいていかなくてはならないと、思うのです。







 小学校の教諭として生涯を教育に捧げられた東井義雄という先生がおられます。子どもたちに寄り添い、子どもたちの輝きを見出し、心温まる言葉を数多く残された方でした。また、住職として阿弥陀様のお育てを喜び、お念仏と共に生きられた方でもありました。  ある日の深夜、東井先生のお宅に電話がかかってきました。「こんな夜中に誰だろう」と受話器をとると、一刻の猶予もならぬという感じの、聞き覚えのない、若い男の人の声が響いてきました。

「まわり中のみんなが裏切り、見放し、生きる気力を失いました。それで今から、首を吊ろうと思うのですが、ちょっと気にかかることがありまして…」
「何が気にかかるのですか」
「『南無阿弥陀仏』と称えて首を吊ったら、まちがいなく仏さまの国へ往けるのでしょうね」
きっと、東井先生の書かれた本を読まれたのでしょう。ところが東井先生は、その方をどなりつけたそうです。
「ダメです。やめときなさい。あなたのこしらえものの『南無阿弥陀仏』なんか屁のつっぱりにもなるものですか」と。
 著作の温かな言葉とは打って変わった厳しさに、戸惑うような弱々しい声が、受話器の向こうから聞こえてきます。

「では、どうすればいいのですか?」
「どうすればいいかって。あなたは、周り中のみんなが裏切り、逆き、見放したとおっしゃる。でも、まわり中のみんなどころか、肝心のあなた自身が今、あなたを見放そうとしているではないですか。あなたまでが見放そうとしているあなたを、なお見放すことができなくて、『つらいだろうが、どうかもういっぺん考え直して、しっかり生きておくれ』と、必死になって叫んでいらっしゃる方のお声が、あなたには聞こえないのですか?」
「どこにもそんな声なんか…」
「何を言っているのですか!今あなたは激しく、こちらまで響いてくるような音をたてて呼吸しているではないか。その呼吸が、ホラ、今も『どうか考え直して生きておくれ!』と叫んでいるではないか。あなたの胸のドキドキが、『死なせてなるものか!』と、激しく叫んでいるではないか。それがほんとうの『南無阿弥陀仏さまのお声』なのです。本当の『南無阿弥陀仏』にであわなかったら、生きても、死んでも、あなたの人生は空しいのです」
すると、
「何だか、たいへんな考え違いをしていたようです」
と電話が切れました。その声の響きから、自殺はやめにしたのだと確信できた東井先生も、ホッとして、床につかれたそうです。(『仏の声を聞く』東井義雄)





 みんなに見捨てられて独りになっても、自分が自分を見捨てても、この私を見捨てない世界がある。その世界からの呼び声「南無阿弥陀仏」が、私の心の底から響いてくださっている。阿弥陀様は、いつも私たちの心の中におられるのです。阿弥陀様からの呼び声を受け止め、阿弥陀様と共に生きる。それが、自分の人生を尊いものとしていただくことになるのです。■