2022(令和4)年1月


新しい一年が始まりました。区切りを迎えると、やはり気持ちも改まりますね。そして、新たな一歩を踏み出す際には、誰もが希望に満ちた言葉を胸に思い浮かべます。お正月のテレビ番組でも、「今年は、どんな一年にしたいですか」という質問が聞かれますが、そこで後ろ向きの言葉が出てくることは、ほとんどありません。
 しかし時が経つにつれ、新たな気持ちも萎えてきて、次第にネガティブな言葉に引きずられはしないでしょうか。私自身を振り返ってみても、一年一年そんなことの繰り返しだったようにも思えます。特に今の時代は、生きる力を奪うような言葉に溢れていますから、それを聞くたびに気持ちも落ち込んでしまいます。

以前、プロ野球の若手選手二人を招いたインタビュー記事を読んでいた時のこと。一人の選手が、友人であるもう一人の選手をからかうコメントをしました。すると、からかわれた選手が返したのが、「死ね!」という言葉。しかもそれが、そのまま記事に書かれていたのです。親しい友人同士とはいえ、若い人たちの間には「死ね!」という言葉が、日常的に使われているのか。そしてそれが、当り前のように記事として掲載される時代になったのかと、暗澹たる気持ちになりました。

 一昔前までは、若者が使う「死ね」や「殺す」という言葉は、不良やヤンキーたちが相手をおどし、こわがらせるために使っていたものでした。自分を強く大きく見せるために粋がって背伸びした、非日常的な言葉だったと言えるでしょう。ところがテレビゲームやネットゲームが普及し、いわゆる「対戦型ゲーム」をしている子どもたちは「死んだ?」「うん、殺した」という会話を、当り前のように交わしています。それが日常会話にも、軽い感覚で使われるようになったのでしょうか。
 普段は何気なく聞き流せる言葉でも、心が弱っている時に聞くと、生きる力が奪われていきます。言った側に悪意はなくても、言われた側にはダメージが積み重なっていくのです。そんな言葉が、日常的に使われている。いや、インターネットやSNSには、もっと酷い、悪意ある言葉が当り前のように飛び交い、増幅され、広がっています。


 


「あんな顔だったら、わたしなら死ぬ」。
 石井政之さんは十代の頃、通りすがりの女子高生に、こんな言葉を投げかけられました。石井さんは顔の右半面に、単純性血管腫という赤く大きなあざがあります。女子高生は、石井さんの顔のあざを見て、軽い気持ちで言ったのでしょう。しかし、繊細な十代の男の子にとっては、心をえぐり取られるような残酷な言葉だと思います。いや十代に限らず、「私なら死ぬ」という言葉は、「あなたには、生きる資格がない」という存在そのものを否定する言葉になるのです。石井さんは、
 「ふざけんなよ、ぼくの人生を何も知らないくせに。そう思った。でもインターネットのない時代だったから、それは通り過ぎていく話だった。今は違う。ネット上に匿名の言葉の暴力が積み上がっていく」
と言われています。その後、顔に疾患や外傷がある人たちの自助グループ「ユニークフェイス」を立ち上げ、またライターとして「美醜」を巡る社会の姿を追ってきた石井さんは、かけられた軽い言葉に背中を押され、死を選んだ人を数多く見てこられました。(『安楽死と呼ぶ前に〜「私なら死ぬ」はヘイトスピーチ ネットに堆積する匿名の暴力 障害ある人の受け止めは』2021年3月18日 京都新聞)


言った側は軽い気持ちでも、悪意はなくても、厳しい状況に置かれた人にとっては、死という選択肢へ背中を押すきっかけになる。以前なら通り過ぎていく言葉が、今はネットやSNSに積み上げられている。その言葉の暴力に、生きる力を奪われる人が増えている。これが私たちの生きる社会の現実です。


 『大無量寿経』というお経には、阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が立てられた四十八の願いが述べられており、その四番目に「無有好醜の願」があります。「若し、私(法蔵菩薩)が建てようとする国(浄土)の人たちに、好醜の区別があるならば、私は仏(阿弥陀如来)に成らない」という願いです。阿弥陀如来のお浄土は、美醜の区別がない世界なのだと。

 この「無有好醜の願」を通して新たな視野を開いたのが、「民藝運動」で有名な思想家・柳宗悦でした。「民藝運動」とは、民衆が暮らしの中で使う、無名の工人がつくった平凡な日用雑器に美を見出すものです。それまで誰一人としてその美的価値を見ることのなかった日用品に、驚くべき美の姿を発見する。その思想は、凡夫が凡夫のままに、阿弥陀如来の他力(利他力)によって光輝く存在となるという親鸞聖人の教えから、大きな影響を受けています。
 柳は、「無有好醜の願」から開かれた視野を、「美の法門」というタイトルで講演し、このように語りました。

「美醜は、人間の分別によって生じる迷いである。真に美しいもの、無上に美しいものとは、美醜二元から解放されたもので、それ故自由の美しさである。本来自由たることが美しいのである。美醜二元をこえるとは、本来美醜のない性質が備わっているのだから、美しく成ろうとあせるより、本来の性(さが)に居れば、何ものも醜さに落ちないはずだ。/しかし、本来の性に在るということは、心弱い普通の人間にはなかなか困難である。そうした人々を救うのが仏であるように、美の世界にも、他力が用意されている」(三重県立美術館柳宗悦展図録『柳宗悦の「美の思想」について』酒井哲朗)

柳の言葉を通して考えれば、「わたしなら死ぬ」という言葉は、美醜に囚われた、迷いの中にいる者の言葉だと言えるでしょう。迷いの中で、狭くて浅い価値観を振り回し、人を切り捨てる。それでは、真の美しさは見出せない。しかも迷いの言葉は、立場が変われば、自らの存在を否定する言葉となって、自分に襲いかかってくるのです。
 しかし、「心弱い普通の人間」には、迷いの言葉に惑わされ振り回されることから抜け出し、自身の真の美しさを見出すのは「なかなか困難」です。そんな私たちを救うために、阿弥陀如来の利他力というはたらきがあるのです。

それは、「わたしなら死ぬ」という言葉に動揺し、「こんな私には、生きる資格がない」と自らを貶める私たちに、「そんな言葉に惑わされるな」「真実の有り方に目覚めなさい」「あなたは、生きていいんだ」と呼びかけてくださるはたらきです。生きる力を奪う言葉の中にあっても、「でも、生きる」という力を与えてくださる。そんな阿弥陀如来からの呼び声が、利他のはたらきが、「南無阿弥陀仏」というお念仏として届けられている。お念仏を拠り所に、苦難の人生を歩まれた先輩方の歴史が、それを証明しています。

 



「フジモン」という愛称でお馴染みの藤本敏史さんと、「一兆個のギャグを持つ男」と自称する原西孝幸さんによるFUJIWARAというお笑いコンビがおられます。彼らには、こんなギャグがあります。
 フジモンさんに「死ね!」とツッコまれた原西さんが、力強く言い放つのです。
「生きる!」と。
 
私は最初にこのギャグを見た時に、感動してしまいました。生きる力を奪う言葉に、ここまで自信を持って言い返せたら良いですよね。でも、心弱い普通の人間には、なかなか言えることではありません。しかし、そんな私の支えとなるために、阿弥陀如来のはたらきは届けられているのです。

新たな年を始めるに当たり、誰の言葉を聞いていく一年にするのか、そして本当の希望の言葉とは何なのかを、よくよく考えていかねばならないと、改めて思うのです。■