2022(令和4)年10月

 

 腰痛で苦しんでいます。朝、布団から起き上がるのがツラいのです。腰痛対策のマットレスを敷いて寝ているのですが、なかなか自分の身体に合うものに出会えません。高価なものを買ってみようかとも思うのですが、もしそれが合わなかったらと考えると、これもまた勇気が出ないのです。

ただ、身体に合うマットレスがあれば、すべて問題が解決するのかというと、そうでもないようです。そもそも痛みは身体の不調からくるもの。お世話になっている整骨院の先生からも、「身体のバランスが崩れていることで、痛みが出るのです。姿勢の矯正や体操が大切ですよ」と、常々指摘されています。

しかし考えてみれば、痛みがあるからこそ身体の不調がわかるのですね。痛みとは、身体が傷ついていたり、弱っていることを知らせる身体からのメッセージ。痛みがなかったら、取り返しがつかなくなるまでほったらかしているに違いありません。身体を大切にするためにも、痛みの大切さを思い知らされます。

それは、心においても同じことなのでしょう。心に感じる痛みや悲しみは、自分が傷つけられた時や、大切な存在を失った時に起こるもの。大切に思うからこそ、傷ついたり失うことに痛みや悲しみを感じるのです。大切だと思っていなかったら、そんな感情は起こりません。

ならば、心に痛みを感じることがない生き方とは、大切なことが大切に思えていない。かけがえのない存在がいない。そして自分自身さえも、本当に大切にできていない。そんな心貧しく寂しい人生だと言えるのではないでしょうか。


 

 
 もう二十年以上も前のことです。『ニュース23』という番組の生放送で行われた討論会で、一人の青年から
「なぜ人を殺してはいけないのか分からない」という質問が出ました。彼は、「自分は死刑になりたくないからという理由しか思い当たらない」と続けたそうです。

この発言に、社会は大きく揺れ動きました。その場にいたジャーナリストの筑紫哲也さんや詩人の灰谷健次郎さん、作家の柳美里さんたちが、誰も答えることができなかったからです。当り前のように「いのちを大切に」と語ってきた大人たちが、何も言えなかった。そんな大人に対して、「不甲斐ない」「結局、きれいごとや理想論を語っていただけなのか」と嘲笑する声も多くあがりました。
 しかし今になって振り返ると、その場にいた大人たちは答えられなかったのではなく、この質問が出てきたことに絶句したのではないかと、私は思うのです。


彼は、人を殺してはいけない理由に「自分は死刑になりたくないから」としか思えない。殺される側の痛みや、遺族の悲しみを想像することができていない。同時に、自分の大切な人を失うことの悲しみも。彼には、失って悲しむような存在はいないのか。だから、大切な人を失う痛みや悲しみを想像することができないのか。それは、お金ですべて解決できると思ってきた考えが、お金には代えられないかけがえのなさを見失わせてしまったからなのか。を麻痺させる社会に、今私たちは生きているのだ…。この事実を突きつけられた衝撃に、大人たちは絶句したのでしょう。

そもそも、この質問に対して理屈で説明することはできません。なぜなら、悲しみは感じるものであり、痛みは体験するものだからです。頭だけで考えていても、わかるはずはないのです。

逆に、人を殺してもいいという理屈は、いくらでも成り立ちます。戦争になれば、「勝つためには仕方がない」「殺さないと、殺される」という理屈で正当化され、敵を多く殺した人が英雄と讃えられます。モチロン、極限状況に置かれれば、そうせざるを得ない場合だってあるでしょう。しかし、そこに痛みや悲しみを抱えるのか。それとも理屈で麻痺させるのか。そこが大きな分かれ目です。

 


 

『涅槃経』という経典に、「無慚愧は名づけて人とせず」「慚愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」という言葉があります。親鸞聖人は著書『教行信証』の重要な部分に、この言葉を引用されています。「慚愧」とは、天に恥じ人に恥じるということですから、自らの生き方を振り返り、痛みを感じ、悲しむことです。でも、おかしな表現だと思いませんか。私たちは元から人に生まれていますし、父母・兄弟・姉妹は、慚愧しようがしまいがあるものです。ところが、「慚愧あるがゆえに」と言われている。これは一体どういうことなのでしょう。

お釈迦様在世の頃、インドにマガダという国がありました。その国王の息子アジャセは、父を殺して王位に就きます。ところがその後、アジャセ王は「罪なき父を、悪友にそそのかされて殺してしまった。あんなに優しく私を育ててくれたのに…」と苦しみ始めるのです。王を慰めようと、取り巻きの大臣たちは、当時の思想家たちを紹介し、それぞれの理屈を語らせます。
「気にするな。悩んでも仕方がない」

「今までも、そんなことをした人はたくさんいた」
「殺された側にも、殺される理由がある」等々…。

しかし、どんな理屈を並べられても、アジャセ王の罪の意識は消えませんでした。それは、冷静になって振り返った時に、父と共に過ごした日々が、懐かしい想い出が、思い起こされたからなのでしょう。その体験と感情は、理屈では麻痺させることなどできなかったのです。


 そんなアジャセ王を救うきっかけとなったのが、「慚愧」でした。ギバという大臣が、「善いかな、善いかな。あなたは罪を犯しましたが、そのことを悔い、慚愧の思いを起しておられる。お釈迦さまは、慚愧こそが苦悩の衆生を救う白法(清らかな法)なのだと、常に説かれています」と苦悩する姿を褒め、「無慚愧は名づけて人とせず」「慚愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」と語るのです。
 慚愧なき者は心が麻痺し、人である自分を見失っているのだ。同時に父王を殺そうとしていた時にあなたは、父をも見失っていた。顔を突き合わせていたにもかかわらず、父という存在を感じていなかった。しかし今、あなたには慚愧の心が起こっている。それはあなたが、父王を感じているからだ。あなたは今、確かに父と出会っているのだと。この言葉に心を動かされたアジャセ王は、お釈迦様のもとを訪れ救われていきます。『涅槃経』のこの場面を、親鸞聖人はとても大切にしておられます。

 
自分のあり方に悲しみと痛みを持つ。それが慚愧です。都合の悪い部分から目を逸らし、理屈で心を麻痺させるのではなく、真摯に自分の人生と向き合う姿でもあります。そして、この慚愧によってこそ、救いのはたらきが開かれ、道を求める心が起こされていくのだと教えられるのです。

 




 
 悲しみと痛みを忘れた世界は、周りの大切な人を見失い、自分を見失った世界です。何を悲しく思うのかは、裏返して言えば、何を大切に思っているかということなのですから。

「なぜ人を殺していけないのか」という質問が出てから、二十年以上の時が流れました。社会の状況は、ますます深刻化しているような気がします。私たちは、何に悲しみや痛みを感じているのでしょう。理屈をつけては、大切なことから目を逸らし、心を麻痺させてはいないだろうか。深く振り返らねばなりません。