『涅槃経』という経典に、「無慚愧は名づけて人とせず」「慚愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」という言葉があります。親鸞聖人は著書『教行信証』の重要な部分に、この言葉を引用されています。「慚愧」とは、天に恥じ人に恥じるということですから、自らの生き方を振り返り、痛みを感じ、悲しむことです。でも、おかしな表現だと思いませんか。私たちは元から人に生まれていますし、父母・兄弟・姉妹は、慚愧しようがしまいがあるものです。ところが、「慚愧あるがゆえに」と言われている。これは一体どういうことなのでしょう。
お釈迦様在世の頃、インドにマガダという国がありました。その国王の息子アジャセは、父を殺して王位に就きます。ところがその後、アジャセ王は「罪なき父を、悪友にそそのかされて殺してしまった。あんなに優しく私を育ててくれたのに…」と苦しみ始めるのです。王を慰めようと、取り巻きの大臣たちは、当時の思想家たちを紹介し、それぞれの理屈を語らせます。
「気にするな。悩んでも仕方がない」
「今までも、そんなことをした人はたくさんいた」
「殺された側にも、殺される理由がある」等々…。
しかし、どんな理屈を並べられても、アジャセ王の罪の意識は消えませんでした。それは、冷静になって振り返った時に、父と共に過ごした日々が、懐かしい想い出が、思い起こされたからなのでしょう。その体験と感情は、理屈では麻痺させることなどできなかったのです。
そんなアジャセ王を救うきっかけとなったのが、「慚愧」でした。ギバという大臣が、「善いかな、善いかな。あなたは罪を犯しましたが、そのことを悔い、慚愧の思いを起しておられる。お釈迦さまは、慚愧こそが苦悩の衆生を救う白法(清らかな法)なのだと、常に説かれています」と苦悩する姿を褒め、「無慚愧は名づけて人とせず」「慚愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」と語るのです。
慚愧なき者は心が麻痺し、人である自分を見失っているのだ。同時に父王を殺そうとしていた時に、あなたは、父をも見失っていた。顔を突き合わせていたにもかかわらず、父という存在を感じていなかった。しかし今、あなたには慚愧の心が起こっている。それはあなたが、父王を感じているからだ。あなたは今、確かに父と出会っているのだと。この言葉に心を動かされたアジャセ王は、お釈迦様のもとを訪れ救われていきます。『涅槃経』のこの場面を、親鸞聖人はとても大切にしておられます。
自分のあり方に悲しみと痛みを持つ。それが慚愧です。都合の悪い部分から目を逸らし、理屈で心を麻痺させるのではなく、真摯に自分の人生と向き合う姿でもあります。そして、この慚愧によってこそ、救いのはたらきが開かれ、道を求める心が起こされていくのだと教えられるのです。
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