2022(令和4)年11月


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
  沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

  奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」


平家一族の栄華と没落を描いた古典『平家物語』の冒頭の言葉です(ちょうど、今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』と重なる時代の物語ですね)。有名な言葉ですし、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
 地位も名誉も、権力もお金も、すべてを持っていた人たちも、必ず落ちぶれる時がくる。「この世のすべてのものは移り変わり、永遠に変わらないものなどない」という仏教の教え、「諸行無常」を表すこの言葉。現代の私たちにも通じる人間の事実を示しているのですが、私たちは遥か昔のお話にしてはいないでしょうか。



 


 批評家で随筆家の若松英輔さんは、東京工業大学の教授でもあります。若松さんが大学の教員になり、学生たちと対話をする中で強く感じたのは、「自分が人を助ける側には立っているのですが、自分が人に助けられる立場になるという発想がまったくない」ということでした。しかも、それが「無意識レベルまで浸透している」とも感じたそうです。
 冷静に考えてみれば、誰もが困る時ってありますよね。いつも助ける側、強い立場にいるということはありません。まさに「諸行無常」です。世の中は常に移り変わり、いつまでも同じ状況が続くことはない。栄えるものも、いずれは滅びる。それは、わざわざ『平家物語』を持ち出さなくても、誰もが経験的に学んできたことです。「明日は我が身」という言葉もありますし、私たちは助けたり、助けられたりして生きています。いつも助ける側にいるわけではありません。
 ところが近頃の学生は、助けられる側になるという発想がない。これは学生たちが、「自己責任」を強いる社会の求めに応じた結果だと、若松さんは指摘されます。(『弱さの力』若松英輔)


 


 「自己責任」という言葉が定着して久しいですが、これは「自分が今困っているのは、自分の責任なのだから、他人に助けを求めるべきではない」、つまり自業自得だという考え方です。
 この「自業自得」も、仏教の言葉ですね。因果応報、原因があればそれ相応の結果があるという、仏教の基本的な考え方から来た言葉で、「自分がしたことの報いは、自分が引きうけなくてはならない」ということです。しかし、ここには注意が必要です。仏教では、そこに縁というものを考えますから、一直線に「今あなたの置かれた状況は、全部あなたのせいだ」と短絡的に考えるものではありません。仏教の因果論は、もっと奥深いものです。

第一、今の自分の結果が、自分がしたことの報いなのかどうかは、一つ一つ厳密に調査し検証しないとわかりません。もしかすると、違う原因があるのかもしれない。周囲からの圧力や、環境によるものもあるのかもしれません。それを表面だけで、すべて「お前の責任だ」と安易に決めつけるのは因果論の悪用であり、その人に責任を押しつけているだけでしょう。

何より「自己責任」を語る時、助ける側の立場が上で、助けられる側が下。迷惑をかけられている方の立場が上で、かけている方が下ということになってはいないでしょうか。そうなると、「助けて欲しい」と言うことで、自分が弱い立場になってしまう。同時に、自分の惨めさを受け入れることになる。そして、弱みを見せたくないから、責任もとりたくない。責任をとる立場になると、何かあったら叩かれ、弱い立場になりかねないから。結局、自己責任と言いながら誰も責任をとらず、それどころか責任を押し付け合っている。これが、「自己責任」を叫ぶことでできあがった「無責任」な社会です。
 それは、「あすは我が身かもしれない」「助けられる側になるかもしれない」という、この世の無常という事実から目を背けている姿です。いや、その発想自体を無意識に拒否している。そんな感覚が、若松さんの「無意識レベルにまで浸透している」という指摘に込められているではないでしょうか。
 ここまでくると、既にいただいているもの、恵みや慈しみ、恩からも、目を背けざるをえなくなります。素直に感謝することさえも、できなくなってしまいます。



 

 

ところで、皆さんは「お互いさま」という言葉をご存知でしょうか。「誰でも知っているよ!バカにするな!」と怒られた方、ごめんなさい。でも近頃は、日常的にもほとんど耳にすることがないもので…。テレビドラマでも、責任を押し付け合う姿は目にしても、「お互いさま」と責任を取り合うシーンを見ることはなくなりました。何より私自身が使っていなかったのではと猛反省。あえて意識して使ってみると、相手がホッとするのが伝わってきたのです。貸し借りではなく、温もりのある関係が生まれたようにも感じられ、これは大切な言葉だなと改めて気づかされました。

「お互いさま」を辞書で調べると、「両方とも同じ立場や状態に置かれていること」とあります。助ける方が上とか、助けられる方が下とか、そんなことではなく、同じ立場だからこそ「互い」に「お」と「さま」をつけて尊重し合う。これが「お互いさま」です。

 



 「あすは我が身」という「諸行無常」の事実の前では、皆同じ立場なのです。この事実を見失い、私たちは「自己責任」という言葉を使うことで、責任を押し付け合う無責任な社会を作り上げてしまったのではないでしょうか。
 私たちは、「助けて欲しい」と言っていいのです。いや、助けられ、恵みをいただきながら生かされているのが私たちです。自分の人生に本当の責任をとるということは、その事実を受けとめることからしか始まらないのです。

 そして何より、助けられて生きる姿は、周りの人の「助けられてもいいんだ」という生き方を生み出します。私はそれを、阿弥陀様に助けられ、救われた親鸞聖人の生き方に学びました。
 「助けてと言ってはいけない」と生きる姿は、周りの人に「助けて」と言わせなくさせてしまいます。そのことを忘れた時に、感謝も温もりも失われていくのでしょう。■
 








When I was younger, so much younger than today,

昔、僕が今よりずっと若かった頃は

I never needed anybody's help in any way

何をするにも誰かに助けを求めたことなんてなかったのに

But now these days are gone, I'm not so self assured,

でも、それももう昔のこと、今の僕は自信を失いかけていて

Now I find I've changed my mind and opened up the doors,

気がついたら気持ちが変わり、心の扉を開いていたんだ

               (『HELP』ビートルズ)