2022(令和4)年12月


昔からそそっかしい私ですが、年齢を重ねていくごとに、ますます物忘れが酷くなってきました。ところが、それを自覚することで、思わぬ副産物が生まれたのです。それは、仕事が早くなったこと。そして、メモをとり、振り返り、チェックする習慣がついたことです。「今やっておかないと、忘れてしまう」という自覚があるからこそ、すぐに取り掛かる。「大丈夫かな…」という思いが、振り返りや確認へとつながる。何度も見直すから、いろんな角度からの配慮や、より良くするための目配り、工夫も考えるようになってきたのです。

考えてみると、以前は「あとで大丈夫」という思いがありました。できる人にとってはそれも良いのかもしれませんが、私には傲慢な考え方だと、今になって思います。「忘れてしまう」という自覚があるからこそ、地に足を着け、一つ一つに向き合うしかないのです。それでもうっかりすることはありますが、そこは真摯に謝るしかありません。

「オレは大丈夫」という思いは、私にとって過信でしかない。自分への不安があるからこそ、早めに取り掛かり、振り返る習慣が身につく。そこから新たな成長が促される。身を持って、実感しています。
 私はこの生き方を、「愚者スタイル」と名づけています。生涯を通して「愚者」の立場に立ち続けられた、親鸞聖人の姿勢から学んだからです。一般的に「愚か者」とはあまり良くないイメージですが、その立場に身を置くからこそ見えてくるものがあり、賢さを誇るほどに見えなくなるものもあるのです。

 このスタイルを私が徹底できているかというと、モチロンそうではありません。しかし、立ち戻る場所があるからこそ、我に返ることができる。これは、かなり大きなことだと思います。



 


先日、毎日新聞の川柳欄に、こんな作品がありました。

【「天国で会おう」と地獄行きが言う】

近頃のテレビでは、有名人やその家族が亡くなると、芸能レポーターの方たちが口を揃えて「天国から見守っておられますよ」などと言われるのが、当り前のようになりましたね。私は仏教徒なのでよくわかりませんが、天国って誰もが気軽に行ける場所とは思えないのですが…。日頃教会に行くわけでもなく、都合の良い時だけ利用しているのであれば、それは如何なものでしょう。一体いつから、こんな言い方をするようになったのでしょうか。まあ、それはさて置いて。


傍から見れば、地獄行きの生き方しかしてこなかったのに、よくもまあ「天国で会おう」などと、軽々しく言えるものだという川柳です。

どんなに見えるところを着飾っても、生き様や後姿は隠せない。自らを振り返り、時には指摘してもらうことがなかったら、自分がどんな後姿を晒しているかはわかりません。ところが、「悪いことはしていない。大丈夫」と思っていると、人は自分を振り返らないのですね。だから、どんなに地獄行きの生き方をしていても気がつかない。自分が言ったことも忘れて、言われると怒り、逆ギレして恨む。自分の人生に向き合うこともなく、周りを傷つけていることに気がつかないまま、のんきに「天国に行ける」と思っている生き方は、ある意味一番罪深いことだと思います。

私たちの社会は、賢さや正しさを追い求めてきました。裏を返せば、愚かではダメだというプレッシャーが強い社会だとも言えます。だから賢さはアピールしても、愚かさは受け容れ難いし、指摘されるとうろたえ恨む。そして、愚かさと向き合うことを「後ろ向き」「ネガティブ」「自虐的」と否定的に、都合の良いものだけを見ることを「前向き」「ポジティブ」「自分を肯定する」と言ってきたのかもしれません。



 

 

しかし、都合の悪い部分から目を逸らす生き方とは、突かれると困る弱みを持つことでもあります。そうなると、不安を抱えながら生きなくてはなりません。でも、愚かさも醜さもすべて含めた自分を丸ごと認めることができたら、本当の安心感の中で人生を歩めるのではないでしょうか。

確かに、賢さを求める社会で、愚かさと向き合うには勇気が必要です。でも、人生に毅然とした態度で向き合い、確かな足どりで歩む人と出遇ったら、「私も、そうありたい」と素直に思えてきます。「愚かでも、大丈夫。いや、愚かさを自覚するからこそ、見えてくるものがあるんだよ」、そう言ってくださる人がいるからこそ、自分の人生に安心して向き合える。私にとって、親鸞聖人はそんな方なのです。

自らを深く振り返り、まさに地獄行きの生き方をしているという自覚があるからこそ、この私を思い、救わずにはおれないとはたらいてくださる阿弥陀様との出遇いが開かれる。受けとめてくださる大地のような阿弥陀様のはたらきに出遇うから、愚かな自分と向き合う勇気が与えられる。そこから、思いもよらない豊かな人生が見えてくるのだと、私は親鸞聖人から教えられたのです。

 



 

以前、長門市の教育委員を勤めていた時のこと。二人の先生との出会いがありました。一人目は、真面目で一生懸命。自分の信念を持って、迷いなく取り組む「迷わない先生」。二人目は、この子にとって一番良い答えは何だろうかと、問いを持つ「迷う先生」です。子どもたちにとっては、一体どちらが良い先生なのか…と考えさせられました。

迷いがないということは、子どもの思いよりも自分の信念を優先し、押しつけることにはなりはしないか。その子が求めている声を聞いているのか。自分の態度を振り返っているのだろうか。少し心配になってきました。

逆に、問いを持ち迷うことは、子どもに寄り添い、共に考え、共に歩んでいこうとしておられるのではないか。実は子どもの思いを優先し、尊重しているからこそ迷うのではないかと、頼もしく感じたのです。

「迷う先生」こそ、まさに「愚者スタイル」だと思いました。愚者の自覚が開く豊かさを垣間見たようで、うれしい気持ちになったのです。

同時に、私は「愚者」であることを忘れてはいないかと、我に返らせてもいただきました。■