先日、毎日新聞の川柳欄に、こんな作品がありました。
【「天国で会おう」と地獄行きが言う】
近頃のテレビでは、有名人やその家族が亡くなると、芸能レポーターの方たちが口を揃えて「天国から見守っておられますよ」などと言われるのが、当り前のようになりましたね。私は仏教徒なのでよくわかりませんが、天国って誰もが気軽に行ける場所とは思えないのですが…。日頃教会に行くわけでもなく、都合の良い時だけ利用しているのであれば、それは如何なものでしょう。一体いつから、こんな言い方をするようになったのでしょうか。まあ、それはさて置いて。
傍から見れば、地獄行きの生き方しかしてこなかったのに、よくもまあ「天国で会おう」などと、軽々しく言えるものだという川柳です。
どんなに見えるところを着飾っても、生き様や後姿は隠せない。自らを振り返り、時には指摘してもらうことがなかったら、自分がどんな後姿を晒しているかはわかりません。ところが、「悪いことはしていない。大丈夫」と思っていると、人は自分を振り返らないのですね。だから、どんなに地獄行きの生き方をしていても気がつかない。自分が言ったことも忘れて、言われると怒り、逆ギレして恨む。自分の人生に向き合うこともなく、周りを傷つけていることに気がつかないまま、のんきに「天国に行ける」と思っている生き方は、ある意味一番罪深いことだと思います。
私たちの社会は、賢さや正しさを追い求めてきました。裏を返せば、愚かではダメだというプレッシャーが強い社会だとも言えます。だから賢さはアピールしても、愚かさは受け容れ難いし、指摘されるとうろたえ恨む。そして、愚かさと向き合うことを「後ろ向き」「ネガティブ」「自虐的」と否定的に、都合の良いものだけを見ることを「前向き」「ポジティブ」「自分を肯定する」と言ってきたのかもしれません。
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