2022(令和4)年2月

日本の伝説的なロックバンドといえば、ザ・ブルーハーツを挙げる人が多いのではないかと思います。1980年代後半から90年代前半にかけて活躍し、「リンダリンダ」「TRAIN-TRAIN」「人にやさしく」といった名曲は、耳にすれば誰もが「聞いたことがある!」と言われるはず。それほど、大きな影響力を持ったバンドでした。
 そのザ・ブルーハーツのボーカルで、中心人物だった甲本ヒロトさんがTVのトーク番組に出演し、こんなことを言っておられました。

「同じ世界に生きているから、同じものを見ているはずなんですね。同じものを聴いているんですよ。でもね。面白いもので、同じところにいて同じ方向を向いているから、同じものが見えているとは限らなくて、それはどういうことかというと、ピントが合っている場所が違うんです」(フジテレビ『まつもtoなかい』)。

これは、ヒロトさんがロックとの出遇いについて語られたものなのですが、私たちのものの見方についての本質を表している言葉だと思いました。同じ方向を向いていても、同じものを見ているとは限らない。どこにピントが合っているかで違う景色に見えるし、人によっては見えないものもある。確かに、そうだと思います。

 そう考えると近頃は、経済合理性や生産性ばかりにピントを合わせる社会になったように思えます。お金や損得、役に立つか立たないか。そこばかりにピントを合わせていたら、見えないものも出てくるのではないでしょうか。


             
 

読売新聞に、『子どもの詩』というコーナーがあります。五十年以上も前から続く名物コーナーで、全国の中学生以下を対象に応募された、子どもならではの新鮮な視点の詩が、数多く掲載されています。その中で、私のお気に入りを紹介したいと思います。
 まず一つ目は、茨城県の小学六年生・伊藤直人くんの『田舎』という作品です。

「ぼくの家の周りは 畑と森と 自動販売機しかない
  他に何もないところが 豊かなところだと思う」(『こどもの詩』50周年精選集)

 凄いと思いませんか。経済合理性や生産性に合わせたピントでは「何もない」としか見えない景色が、伊藤くんには「豊かなところ」に見える。たくさんのものが、色んなものが、彼には見えている。こんなピントの合わせ方を、私たちは学ぶべきではないでしょうか。

              

 二つ目は、1995年に起こった阪神淡路大震災の後に、神奈川県の小学二年生・村田佳奈恵さんが書いた『がれき』という作品です。


「神戸の大震災のニュースで がれきという言葉を知った
 がれきは「あっても何の役にも立たないもののたとえ」と辞書にのっていた
 でも神戸のは がれきじゃない ぜったいちがう
 神戸の町にあるのは 一人一人の大切な こわれてしまった宝物なんだ」
     (『こどもの詩』50周年精選集 読みやすいように、一部漢字に変えています)

 同じものを見ても、人によって、立場によって、大切にしているものによって、違って見える。ゴミに見える人もいれば、思い出の詰まった宝物に見える人もいる。自分のピントに合ったものが、世界のすべてではないのです。

 親鸞聖人が書かれた『唯信鈔文意』という書物に、「れふし・あき人、さまざまのものは、いし・かはら・つぶて」という言葉が出てきます。「いし・かはら・つぶて」とは、まさに「がれき」と同じ意味、「あっても何の役にも立たないもののたとえ」です。当時では、猟師や漁師、商人といった人たちは、社会的に蔑まれていた存在でした。いや、仏教の救いからも排除された存在だったと言えるでしょう。親鸞聖人はそんな立場の人たちと、「いし・かはら・つぶてのことくなるわれらなり」と、共に生き、共に救われていく道を求められました。そして「かはら・つぶてを、こがねとなさしめんがごとし」、がれきのように扱われている人々を、黄金のように輝かせてくださる阿弥陀如来のはたらきと出遇われたのです。
 社会的には「あっても何の役にも立たないもの」のようにしか見えない「われら」が、阿弥陀様から見れば黄金のように輝く「宝物」だと知らされた。その喜びと感動が、伝わってくるような言葉です。
 こんなピントの合わせ方を知らされたら、自分が見ているものが世界のすべてだとは言えなくなります。自分が知っている、分かっていると決めつけていることが、いかに傲慢なことかを教えられるでしょう。
 仏様の智慧を「如実知見」と言います。そのものを、ありのままに見るということです。しかし私たちには、ありのままにものを見ることはできません。それぞれのピントが合ったものしか見えないのが、私たちなのです。

              


 最後に、『子どもの詩』からではありませんが、こんな詩をご紹介したいと思います。

「闇の夜の 月の光のありがたさは わかるけど
 太陽の光は 大きすぎて わからない
 雨の日の 傘のありがたさは わかるけど
 屋根のご恩は 大きすぎて わからない」

これは、誰が書かれたかわからないのですが(ご存知の方がおられたら、ぜひ教えてください)、今回のテーマを締めくくるには、相応しい詩だと思います。
 足元のおぼつかない闇夜に、月の光が差し込むとホッとします。雨の日に、傘があると「良かった」と思います。しかし、昼間に太陽の光があるのは当り前。屋根の下では、雨風がしのげるのは当然だと、ついつい思ってしまいます。私たちのピントは、近くのものには合いやすいのですが、大きすぎるものには合いにくい。直接的なはたらきに恩は感じても、大きすぎる恩に気づくことは難しい。でも、私が気づいていないだけで、無いわけではありません。

 仏様のはたらきは、私の目には見えません。だからといって、「ない」と決めつけるわけにはいかないのでしょう。なぜなら、仏様のはたらきに気づいた人、ピントが合った人がいるからです。いや正確には、阿弥陀様がこの私にピントを合わせ、はたらきかけてくださっている。その心に気づかれた方がおられたからです。
 
「私には、見えていないものがある」という姿を知らされ、謙虚な学びの姿勢を持つ。そのことが、この私に豊かな世界との出遇いを開かせてくださるのだと、教えられるのです。■

 

※ 今回は、ピントという視覚的な譬えを使いました。しかし、これはあくまでも譬えあり、視覚に障害を持つ方には、また別の見え方があります。それについては、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗 光文社新書)を、ぜひ読んでいただきたいのです。世界が広がり、豊かに見えてきます。