2022(令和4)年3月


この言葉は、飲食店についての情報をインターネットに掲載するグルメサイト『ぐるなび』が、2015年に出した新聞広告のキャッチコピーです。そこには、こんな文章が添えられていました。

「思えばあの人も。ほんの数年前までは名前も知らない他人だったのに。まさかこんなに仲良くなるなんて不思議だ。尊敬したり、嫉妬したり、迷惑かけたりかけられたり。出会いは私にいろんなことを教えてくれる。そしてそういう経験が今の私をつくっている。あなたがいない自分は自分じゃない。そう思わせてくれてありがとう。いつか私も誰かの一部になれるだろうか。さあ乾杯しよう。その一杯は人と人とをつないでくれる」

出会いの不思議さ、大切さを味わうことができる文章です。まあ広告だけに、「さあ乾杯しよう。その一杯は人と人とをつないでくれる」という最後の一文に、「その乾杯する店は『ぐるなび』で検索してね」という思いが込められていることも、伝わってくるのですが…。

出会いは、人を育てます。いや、私たちの人生は、出会いによって成り立っていると言っても良いのでしょう。出会いによって新たな気づきが生まれ、自分の考えの小ささや、世界の豊かさを教えられます。逆に傷つき、苦しみ、辛い思いをする出会いもありますが、その苦悩の中で見えてくるものもあるでしょう。私たちの人生は、まさに出遇いによる経験でつくられているのです。
しかし、その出会いを、私たちはどれだけ自覚しているのでしょうか。人生を振り返り、「あの時、あの人に会ったからこそ」と気づけた時、改めて出会いによって育てられていたことを知らされる。そして、「あなたがいない自分は自分じゃない。そう思わせてくれてありがとう」と言える、そんな出会いがある人生は、とても素敵なものだと思います。


                      
 


私はこの広告に添えられた文章を読んで、遠藤周作の『深い河』という小説の一節を思い出しました。
 登場人物の一人である磯部は、妻を亡くした悲しみの中で、インドへ向かいます。ガンジス河の前に立つ彼は、ある一つの思いに突き当たりました。
「一人ぼっちになった今、磯部は生活と人生とが根本的に違うことがやっとわかってきた。そして自分には生活のために交わった他人は多かったが、人生のなかで本当にふれあった人間はたった二人、母親と妻しかいなかったことを認めざるをえなかった」
                             
(『深い河』遠藤周作)

「生活」を生きることと「人生」を生きることは、根本的に違う。その通りだと思います。では、どう違うのか。
 「生活」を生きる中での交わりとは、自分を中心にしたもの。極端に言えば、自分の思いを満たすための道具や手段として相手を見ていく関係、「役に立つか立たないか」で判断した、利用するための関係だと言えるのではないでしょうか。
 それに対して、「人生」を生きる上でのふれあいとは、「生活の中に、フッと穴を開けてくれる」(『ほんとうの私を求めて』遠藤周作)ような、その出会いによって自分自身が変えられていくようなものなのでしょう。それまでの枠組みが揺さぶられ、新しいものの見方が開かれ、思いもよらなかった自分に育てられていく。まさに、「あなたがいない自分は自分じゃない」と言える出会いなのだと思います。
 私たちは共に「生活」をしていても、「人生」の中で出会っているとは限らないのです。自分の思いで相手を決めつけている間は、顔を突き合わせても、すれ違っているだけなのかもしれません。



 これは、仏様との出遇いにも通じます。仏様を私の願いをかなえる為の道具としたり、仏法を学ぶことで名利を得ようとする限り、出遇いが開かれることはありません。仏法を通して、都合を優先してきた自分の姿を知らされる。枠組みが揺さぶられ、新たな世界に気づかされる。それが仏様との出遇いなのだと教えられるのです。但しそれは、劇的な体験という形もあれば、静かに少しずつ育てられるケースもあります。また、直接出会っていなくとも、その方の言葉に導かれ、人生が変わるのであれば、それも出遇いと言っても良いのだと思います。なぜなら私も、親鸞聖人や先人の言葉によって育てられた一人だからです。



              



2016年、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、十九人が殺されるという痛ましい事件が起きました。事件を起こした植松聖被告の手紙には「障害者は不幸を作ることしかできません」と書かれ、そして事件を受けてインターネットには、「よくやった!」と同調する意見が、数多く書き込まれました。

通常の事件報道と違い、被害者やその家族が憤りを表明できないまま、加害者側の言葉だけが盛んに報じられていきます。メディアが憎悪を拡散させることにしかなっていない中、ジャーナリストの神戸金史さんがFacebookに投稿した、重度の自閉症を持つ長男へ書いた詩『障害を持つ息子へ』が、大きな話題となりました。抜粋して、ここにご紹介します。 



「私は、思うのです。長男が、もし障害をもっていなければ。
   /私たちはもっと楽に暮らしていけたかもしれないと。
   何度も夢を見ました。「お父さん、朝だよ、起きてよ」
   長男が私を揺り起こしに来るのです。/そして
   目が覚めると、 いつもの通りの朝なのです。
  /ああ。またこんな夢を見てしまった。ああ。ごめんね。

   幼い次男は、「お兄ちゃんはしゃべれないんだよ」と言います。
  いずれ「お前の兄ちゃんは馬鹿だ」と言われ、泣くんだろう。
  想像すると、私は朝食が喉を通らなくなります。

   そんな朝を何度も過ごして、突然気が付いたのです。
   弟よ、お前は人にいじめられるかもしれないが、
  人をいじめる人にはならないだろう。

 生まれた時から、障害のある兄ちゃんがいた。
  お前の人格は、この兄ちゃんがいた環境で形作られたのだ。
  お前は優しい、いい男に育つだろう。/

  あなたが生まれたことで、私たち夫婦は悩み考え、
  それまでとは違う人生を生きてきた。

   親である私たちでさえ、あなたが生まれなかったら、
  今の私たちではないのだね。/

   あなたが生まれてきてくれてよかった。私はそう思っている。
  父より」
     (神戸金史 この詩はFacebookから、のちに書籍『障害を持つ息子へ』に所収されました)




 「あなたがいない自分は自分じゃない」と言い切れる、そんな人生の出会いがここにある。「役に立つか立たないか」では、理解できない豊かさがある。この詩を読んで、私は圧倒されました。自分の人生の受け止め方が、いかに貧しいかを突きつけられたような思いがしました。

どうやら、人生を振り返り、よくよく見直す必要があるようです。「あなたがいなければ、私は私ではなかった」と思える人が増えるほど、人生が輝いて見えてくるのですから。■

                     


                       




※ 今回の文章では、「出会い」と「出遇い」という表記を使い分けています。
 「あう」にも色々な漢字が当てられ、それぞれに意味が違うのです。

  「会」は、知人に会う、人と会うということ。
  「逢」は、男女がであうこと。
  「遭」は、悪い事にであうこと。
  「合」は、川が合流する、話が合う、息が合うなど、二つ以上のものが一つになる。
  よく調和すること。

  このように「あう」にも様々ありますが、親鸞聖人は「値遇」という言葉を使われています。
  「遇」とは「たまたま、あう」ということで、「値」は、人と直面する、「寸分狂いなく、ピタッと合わさる」ということ(商売の「値段」は、ここから来ています)。そして「値遇」とは、阿弥陀様との出遇いを表されています。まさに自分のための教えと出遇ったという喜び。そしてそれは、私から求めたものではなく、「たまたま」としか言えないものだったという親鸞聖人の感動が、この字に込められているのでしょう。その為、人に対しては「出会う」、阿弥陀様や親鸞聖人、仏法を伝えてくださる先輩方には「出遇う」と使い分けて、表記しています。