2022(令和4)年4月



テレビの通販番組が、嫌いです。だって、欲しくなるから。
 商品の魅力を、様々な手法を駆使して語る販売士さん。「えーっ!凄い!」と驚くタレントさんや会場のお客さんの声。「今なら、この価格で」という購買意欲をかき立てられる価格設定。「これは、便利だ!」と思って、ついつい買ってしまうのですが、いつしか使わなくなり、結局押し入れに仕舞い込むことに。そんなことの繰り返しです…。いくら素晴らしい商品も、それを活かすことができなければ、無駄にしかなりません。何よりそれが、私にとって本当に必要なのかどうか。使いこなせるのか。そんなことを考えるのですが、見るとまた欲しくなる。結局、購買意欲を刺激される言葉に、踊らされているだけのような気がします。

             

 東京工業大学の教授・伊藤亜紗さんは、著書『目の見えない人は世界をどう見ているのか』で、「人は自分の行動を100パーセント自発的に、自分の意思で行っているわけではありません」と言われています。例えば、「寄りかかって休む」という行為ひとつとっても、大抵は「寄りかかろう」と思って壁を探すのではなく、壁があるから寄りかかってしまう。子どものいたずらも、ボタンがあるから押したくなるし、台があるからよじ登ってしまう。このように私たちは、「多かれ少なかれ、環境に振り回されながら行動している」のだと。
 伊藤さんが、この本を書くにあたり取材した難波創太さんは、39歳のときにバイク事故で失明されました。難波さんは目が見えなくなったことで、「踊らされない安らかさ」を持つようになったと言われます。
「見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです。コンビニに入っても、見えたころはいろいろな美味しそうなものが目に止まったり、キャンペーンの情報が入ってきた。でも見えないと、欲しいものを最初に決めて、それが欲しいと店員さんに言って、買って帰るというふうになるわけですね。/最初はとまどいがあったし、どうやったら情報を手に入れられるか、ということに必死でしたね。/そういった情報がなくてもいいやと思えるようになるには二、三年かかりました」
(『目の見えない人は世界をどう見ているのか』)

 コンビニの店内は、購買意欲を高めるために、商品を配列する順番から高さまで周到に計算された空間なのだそうです。確かに、公共料金を払いに行ったはずなのに、「新製品出てる!」「ついでにスイーツも」と、ついつい買っている私がいます。視覚的な刺激によって欲望が作られ、気がつけば「そのような欲望を抱えた人」になっている。情報の洪水に流され、欲望を煽られ、踊らされてしまっているのです。自分にとって、それが本当に必要なものなのかどうかも、わからないままに…。
 それに対して難波さんは、視力を失ったことで情報が制限されて、「踊らされない安らかさ」を持つようになられたのです。

※ 伊藤さんは、見えない人の苦しみに敬意を払いながらも、この『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本を通して、「そっちの世界はどう見えているの?」「そっちの世界も面白い!」と言えるような、豊かな世界を紹介されています。お薦めの一冊です!(先月に引き続き、ご紹介させていただきました)

                    


私たちは、「これが欲しい」「あれがあれば…」と、様々なものを求めています。その代表的なものがお金でしょう。ところが、私の友人が、こんなことを言っていました。「知っていますか?金持ちにも、悩みがあるそうですよ」って。彼も私も、金持ちになったことがないので経験したわけではありませんが、遺産相続問題やお金持ちのトラブルなどが報道される度に、やはりお金があっても悩みが尽きないのが人間なのだと、うなずかされるところです。

『大無量寿経』には、「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ」という有名な一節があります。田が欲しい、家が欲しい、財産や服が…と願っても、無ければ無いで欲しいと悩みが生まれるが、あればあるで悩みが生まれる。また、「(欲)心のために走り使はれて、安きときあることなし」とあるように、欲望に追い回されて安らかな時がない。それが時代を超えて共通する、私たちの有り様なのだと教えられます。

とはいえ、現代社会で生活していくには、お金は不可欠なものになりました。資本主義社会が、消費や需要という欲望の拡大に支えられているのも事実です。しかしお金は、何のためのものなのかを考えなくてはなりません。お金は、あくまでも生きていくための手段や道具であって、目的ではないはず。手段や道具が、目的のように取り違えられているのではないでしょうか。にもかかわらず、欲望を煽るために周到に計算された環境が作られ、ますます本当に求めるべきものが、見失われているように思えます。

 

親鸞聖人が尊敬され、大きな影響を受けた中国の高僧・曇鸞大師という方がおられます(四世紀末から五世紀にかけての人です。ちなみに、親鸞の「鸞」は、曇鸞大師からいただかれました)。
 『続高僧伝』によると、曇鸞大師は『大集経』の研究を志しましたが、病気になってしまいます。療養の末に何とか回復した曇鸞大師は、志半ばでの死を恐れ、道教の士・陶弘景のもとで不老長生の神仙術を学びました。修行を終え『仙経』を得た曇鸞大師は、意気揚々と帰路に着きます。ところがその道中、菩提流支三蔵という僧に出遇いました。彼は北インドの出身で、多くの経典を中国語に訳し、後世に大きな影響を与えた人物です。

曇鸞大師は菩提流支と出遇い、「仏法には、『仙経』に勝るような長生不死の法はありますか」と、自慢げに語ります。すると菩提流支は「地に唾して」(地面にペッと唾を吐き 『続高僧伝』)、「長生きしても、迷いの中にいるならば、意味がないではないか」と一喝します。そして、「ここに生死を解脱する道がある」と『観無量寿経』を授けるのです。曇鸞大師はその言葉で我に返り、浄土の教えへと導かれ、『仙経』を焼き捨てることになりました。このシーンを、親鸞聖人は『正信偈』に、

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」

『高僧和讃』には、

「本師曇鸞和尚は 菩提流支のをしへにて
 仙経ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめき」


と示されています。


 これを私なりに解釈すると、長生不老の『仙経』はあくまでも手段や道具に過ぎないことを、菩提流支三蔵は指摘されたのではないかと思うのです。本当に、求めるべきものは何なのか。いくら寿命を延ばしても悩みがなくなることはないし、迷いからは抜け出すことはできない。「そんな現実を抱えている我が身であることを、見つめているのか。その現実の真っ只中で、それでも救われていく道を求めるべきではないのか。お前は、何に踊らされているのか!」と、一喝されたのではないでしょうか。しかし、「地に唾して」という表現って、面白いですよね。『仙経』を得たことを自慢する曇鸞への、菩提流支の苛立ちが表れているようで。

                        


 いくら道具が揃っても、悩みが尽きることはありません。そろそろ、踊らされていることを自覚して、本当に求めるべきものは何なのかを、考えてみる必要があるようです。私の生き方を菩提流支が見たら、きっと苛立ちはマックスなのでは。かなり唾を吐かれるであろう、そんな気がする今日この頃です。■