2022(令和4)年5月



この言葉は、秋田洪範という方が作詞をされた仏教賛歌『ほとけのこども』の一節です。浄土真宗に限らず、仏教各宗派で親しまれている歌のようで、「われらは仏の子ども」という表現は、仏様と私たちの関係性を表しています。

菩薩が、あらゆる者を平等に、かけがえのないひとり子のように慈しみ悲しむ心を得た境地を、「一子地」といいます。ちなみに菩薩とは、さとりを目指して生きる人のこと。つまり、「自分のしあわせと他者のしあわせの実現を目指し、仏道を歩む人」のことです。その歩みで至る境地が「一子地」であり、その歩みを完成された方を仏様といいます。つまり仏様の前では、私たちは皆平等であり、かけがえのない存在として大切に思われている。そこから、「ほとけの子ども」という表現になったのでしょう。
 浄土真宗では、阿弥陀様のことを「親さま」と言い習わしてきました。親がわが子を思うように、阿弥陀様は私のことを思ってくださっている。子どもから頼まれなくても、親は子を育てるように、阿弥陀様は慈しみ、はたらきかけてくださる。私たちの先輩方は、そんな「親さま」の無条件の慈悲に支えられ、自分の存在を確かなものとし、人生を生き抜かれたのです。

 

ところが近頃は、「親さま」という表現が使いづらい時代になりました。なぜなら、親子関係の難しさが、様々な形で明らかになったからです。
 生活スタイルが変わり、子どもを見るよりスマホを見る時間が長い親がいることが問題になっています。「自分の夢を実現することが、人生で一番大切なことだ」という考えが広まったことで、子どもの存在を、自分の夢を邪魔する障害物のように感じる親も増えているようです。
 そして、行き過ぎた経済合理主義の考え方が広がることで、「役に立つか、立たないか」「生産性があるか、ないか」の価値観が強くなり、子どもの存在価値を同じ感覚で測ってしまうことも、よく言われるところです。 また、「子どもを作る」という表現が一般化している通り、子どもを親の所有物のように扱う親の存在もクローズアップされてきました。事実、様々な幼児虐待の事件が起こっていますし、「毒親」と言われる親の存在も指摘されています。ただ同時に、その親たち自身が「親に自分の存在価値を認めてもらえなかった」という原体験を持っていたが故に、その歪みが子育てに影響したのだともいわれているのですが…。



              

 

私の子育てを振り返ってみると、多かれ少なかれ同じ様なことがある気がします。「こうすれば良かった」「あんなこと、しなければ良かった」と、息子や娘に対して申し訳ない思いでいっぱいです。


 でも、子育てって難しいんですよね。「尊重する」のと「甘やかす」の線引きは難しいですし、導くために「叱る」はずが、感情にまかせて「怒って」しまうこともあります。「見守る」つもりが「監視」していたり、「信頼している」と言いつつ「無関心」になっていることもあるでしょう。
 何より、親子は距離が近すぎますから、お互い甘えが出てしまう。よそでは遠慮して言えない酷い言葉も、親子間ではストレートにぶつけてしまいます。それが許せる関係性が親子でもあるのですが、同時に相手を傷つけることへのブレーキが、効きにくくもなります。
 とはいえ、親鸞聖人も親子関係には悩まれましたし、この問題は昔からあったものだと思います。問題化してきたのは、子どもの側から声をあげられる時代になったからなのか。それとも核家族化したことで、物理的にも精神的にも密閉空間に生活するようになった為、より深刻になったからなのでしょうか。



よく、「親の愛」という言葉を聞きますが、基本的に仏教は「愛」というものを警戒します。なぜなら愛とは「本質的に自己を愛することを中心としているから」であり、「愛は憎しみと背中合わせ」であるからです(『仏教語大辞典』中村元著)

 私たちは、どこまでも自分というものを中心に考えてしまいます。でも、自分が善いと思ってしたことが、相手にとっては迷惑なこともあるんですよね。逆に、やってはいけないのではと自重したことが、実は相手が求めていたことだったというケースもあります。親子と言えど、相手の気持ちはわからない。あくまでもそれが前提であるはずなのに、わかっている気になっていることですれ違う。愛が深いほどに執着し、それによって憎しみもまた深くなる。だから、仏教は「愛」というものを警戒するのです。

 この苦悩の中から生まれたのが、「慈悲」という考え方でした。真実の「智慧」によって自己愛を離れなければ、他者のしあわせを実現することはできない。悟りの智慧に裏づけられた「慈悲」こそが、自他をしあわせにする道なのだと、仏教では考えるのです。



では、難しい親子関係に、「慈悲」のはたらきである阿弥陀様という存在が加わると、どうなるのでしょう。まず、親子共々「仏の子ども」ですから、阿弥陀様の前では、皆平等。つまり子は親の所有物にはなりません。とはいえ人生の先輩として、導き育てることは必要です。しかし、いつも自分が正しいわけではないと、阿弥陀様と相談しながら子どもと向き合うこともできます。自分を振り返る場が、与えられるのです。
 但し、「これで、すべての問題が解決できる!」とはならないのが、真実の智慧を持たない人間の悲しいところ…。ですが、この営みの繰り返しによって見方が変わり、育てられることは確かです。

 核家族化という密閉空間に親子だけがいると、問題は起こりやすく深刻化もしやすくなります。でも、そこに阿弥陀様という第三者が入ると、関係性も生き方も必ず変わってきます。



                     



北海道の札幌と新千歳空港のほぼ中間にある北広島市は、2023年に完成するプロ野球・北海道日本ハムファイターズの新球場の、建設予定地です。この町は、明治時代に広島県から移住してきた人たちによって開拓されたことがはじまりなのだそうです。

広島は浄土真宗が盛んで、安芸門徒と呼ばれる地域です。江戸時代、広島に限らず浄土真宗が盛んな地域は、口減らしのための堕胎・間引きが行われませんでした。つまり「共に阿弥陀様のお慈悲に包まれているのだから、貧しい中にも決して子どもを殺してはならない」という考えが生き方を生み、習慣となり、文化にもなったのです。しかし土地は限られていますから、人口が増えるにつれ貧困も酷くなります。苦しい生活を支えるために、出稼ぎ・行商に出る人も多く、移住も行われました。そんな状況の中で、明治時代に北海道開拓が始まると、広島から多くの人たちが向かいます。そして、その後のハワイ・北米等への移民へとつながっていったのです。(『真宗宗教社会史の研究』有元正雄)

北広島市という町には、このような背景があるのです。ちなみに、北海道やハワイ・北米には、浄土真宗のお寺がたくさんあります。それは、移住した人々が阿弥陀様と共に生き、手を合わせてきた歴史によるものだと言えるでしょう。


ライフスタイルが変化した現代社会では、「われらは仏の子どもなり」と家族そろって手を合わせることがほとんど無くなりました。しかしこんな時代だからこそ、家庭に阿弥陀様の存在が求められているのではないか。そんなことを思うのです。■