仏教にも守るべき行いのルールがあり、これを「戒」と言います。有名なものが、在家の信者が守るべき「五戒」です。
@不殺生戒(生き物を殺さない)
A不偸盗戒(盗みをしない)
B不邪婬戒(男女の間を乱さない)
C不妄語戒(嘘をつかない)
D不飲酒戒(酒を飲まない)
「戒」と聞くと重々しく聞こえますが、もともとインドのサンスクリット語では「シーラ」といって、「習慣づける」という意味合いが強い言葉です。習慣づけて、肌感覚として身につけるものなのです。
とは言っても現代社会の生活で、「生き物を殺さない」「嘘をつかない」「酒を飲まない」というのは、無理がありますよね。私たちは、教え通りに生きることはなかなかできません。でも、このような指針がなければ、自分がどんな生き方をしているのかもわかりません。教えがあるからこそ、守れていない自覚が生まれる。立ち止まり、振り返ることができる。ブレーキもかかり、「せめてこれくらいは」という慎みも生まれてきます。
そして、たとえ「戒」を守る生活ができたとしても、そこには大きな落とし穴があることを、仏教は強く警戒します。「自分は、規則を守っている」という自負は、守れない人への行き過ぎた厳しさや蔑みにもつながります。時には、いじめや差別にもなりかねません。「戒」を守るのは歩みの始まりではあっても、ゴールではないのです。少しばかり勝れた境地に達したからといって、歩みを止めてはならないと、お釈迦様も厳しく指摘しておられます。
ルールを守っていれば、あとは何をしても良いわけではありません。ルールには定められていなくても、やってはいけないことがあるのです。自分の生き方を見つめ、振り返りながら、相手の思いを聞いていく。習慣づけ、肌感覚として身につけようとする。その歩みを止めた時、いじめや差別は起こるのだと教えられるのです。■
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