2022(令和4)年7月


 以前、中学校で行われた「いじめ対策についての研修会」に、保護者として参加した時のことです。そこで、ある参加者から「どんな言葉を使うといじめになるのか。そのリストは作られていないのか」という趣旨の発言がありました。ありがちな質問だとは思いながらも違和感を感じていたのですが、よくよく考えてみるとこの発想には、かなりの危さがあることに気づいたのです。
「この言葉を使ってはいけない」というルールさえ整備すれば、いじめや差別はなくなるのか。いや、決してそんなことはないのでしょう。なぜなら、言葉は生き物だからです。時と場と関係性によって、また発する人のキャラクターや受け止める側の背景によって、同じ言葉でもまったく意味は変わる。つまり、「この言葉さえ使わなければいい」という考え方は、また別のいじめの言葉を生み出しかねないのです。

 


お笑い芸人の劇団ひとりさんが監督した『浅草キッド』(2021年)は、ビートたけしさんの青春時代を描いた映画です。しかし、この映画で一番存在感があるのは、たけしさんの師匠である伝説の浅草芸人・深見千三郎(演じるのは大泉洋さん。めちゃめちゃカッコいい!)でした。彼の口ぐせは、「バカヤロー」なのですが、この言葉には怒りや愛情、プライドや照れ隠し、弟子を一人前と認める思いなど、様々な意味が込められています。それを、深見という魅力的なキャラクターが発することで、また味わいのある言葉として伝わってきます(たけしさんの口ぐせ「なんだバカヤロー」は、師匠ゆずりなのだとか)。



 

 

この映画は、インターネットの動画配信会社ネットフリックスがオリジナルで制作したもので、映画館での上映はありません。ネットを通して全世界に配信され、世界中の人たちが見ることができます。それについて監督の劇団ひとりさんは、「深見の「バカヤロー」に込められた色んな思いが、海外の人の伝わるのかなぁ」と言われていました。確かに、人によってはパワハラと受け止められかねない可能性もある言葉です。しかし、この映画が描く時代と場所と関係性において、この言葉はとても重要なものでした。

つまり、言葉は生き物なのです。同じ言葉でも、温もりのあるものにもなれば、相手を傷つけることにもなります。その言葉そのものには侮蔑的な意味はなくとも、背景や歴史を考えると、いじめや差別の言葉にもなりえるのです。



 
 

仏教の基本的な教え「縁起の道理」は、「すべての現象は、無数の原因や条件が関係し合って成立しているのであり、固定化した実体はない」という考え方です。すべてのものは、時と場と関係性によって成り立っていて、条件が変われば実体も変わる。言葉も同じです。固定化したものではなく、条件が変わることで意味も変わるのです。

「リストを作れ」というのは、言葉の固定化です。だとすれば、「例えば今なら、どんな言葉がいじめや差別につながるのでしょうか」という、一例をあげてもらう質問であれば理解できます。現時点での問題点や、背景を考えるきっかけになりますから。

何より、「この言葉以外なら、良い」という安心感は、想像力を停止させてしまう。これが一番危険です。ルールさえ守れば、あとは何をしても良いという考えは、相手を傷つけていても気がつけないということ。みんながルールを守りながらも、いじめは続いていく。これにはゾッとします。無自覚だから躊躇いもない。ブレーキもかからない。それだけ相手の傷は深いのです。昨今のSNSでの書き込みで、何人もの人がいのちを絶っていることを思えば、その恐ろしさは身につまされます。

そもそも、困る人や悲しむ人がいるから、ルールや法律はあるのでしょう。人のためのルールであることが大前提。ところが「ルールさえ守れば、あとは何をしてもいい」という態度では、人が見失われてしまいます。ならば、私たちがまずすべきは、相手への想像力をはたらかせること。アンテナを張り、相手の思いに耳を傾けることでしょう。

 

 

 

仏教にも守るべき行いのルールがあり、これを「戒」と言います。有名なものが、在家の信者が守るべき「五戒」です。

@不殺生戒(生き物を殺さない)

A不偸盗戒(盗みをしない)

B不邪婬戒(男女の間を乱さない)

C不妄語戒(嘘をつかない)

D不飲酒戒(酒を飲まない)

「戒」と聞くと重々しく聞こえますが、もともとインドのサンスクリット語では「シーラ」といって、「習慣づける」という意味合いが強い言葉です。習慣づけて、肌感覚として身につけるものなのです。

とは言っても現代社会の生活で、「生き物を殺さない」「嘘をつかない」「酒を飲まない」というのは、無理がありますよね。私たちは、教え通りに生きることはなかなかできません。でも、このような指針がなければ、自分がどんな生き方をしているのかもわかりません。教えがあるからこそ、守れていない自覚が生まれる。立ち止まり、振り返ることができる。ブレーキもかかり、「せめてこれくらいは」という慎みも生まれてきます。

そして、たとえ「戒」を守る生活ができたとしても、そこには大きな落とし穴があることを、仏教は強く警戒します。「自分は、規則を守っている」という自負は、守れない人への行き過ぎた厳しさや蔑みにもつながります。時には、いじめや差別にもなりかねません。「戒」を守るのは歩みの始まりではあっても、ゴールではないのです。少しばかり勝れた境地に達したからといって、歩みを止めてはならないと、お釈迦様も厳しく指摘しておられます。



 
ルールを守っていれば、あとは何をしても良いわけではありません。ルールには定められていなくても、やってはいけないことがあるのです。自分の生き方を見つめ、振り返りながら、相手の思いを聞いていく。習慣づけ、肌感覚として身につけようとする。その歩みを止めた時、いじめや差別は起こるのだと教えられるのです。■