2022(令和4)年8月


 

私たちの社会は、様々な問題を抱えています。たとえば格差による貧困、人種性別や障害による差別、平和、環境問題…。また、これまでの慣習や価値観から、問題として認識されないものも数多くあります。それらは「社会問題」という言い方で一括りにされますが、当事者にとっては、切実なる人生の問題。そこには、痛みや悲しみを抱えた生身の人間がいることを、見失ってはなりません。

そんな人たちに寄り添い、より良い社会にするためにと「社会運動」というアクションが起こされます。しかし、なかなか理解や共感が広がらないことも多く、「そんなことをしても、何も変わらない」という無力感を持つ人や、運動に取り組む人をバカにする人もいるのが現状です。

では、より良い社会にするためのアクションを、どう起こせばいいのか。そのアイディアが、世界の著名人による講演会を開催・配信している非営利団体TEDにて、起業家のデレク・シヴァ―ズさんから提案され話題となりました。

デレクさんはまず、一人の男性が公園のような場所で、上半身裸になって踊りはじめる映像を流します。周囲は、バカにした視線を彼に注いでいました。そこに二人目が参加したのです。一人目の男性は二人目、つまり最初のフォロワー(後に続く者、支援・支持する人)に声を掛け、二人はさらに元気よく踊り出しました。そして三人目が入ってきます。三人はもう「集団」であり、「みんな」です。さらに数人加わり、ますます勢いづいていき、そこにムーブメント(動き・流れ)が起こる。多くの人が加わるほどに、笑われたり、後ろ指をさされるリスクは小さくなる。一旦大きな流れができると、逆らうことが難しくなる。加わらない方がかえってバカにされるからと、みんな集団に入ろうとする。

社会運動も、このような形で起すことができる。社会を変えることができるのだとデレクさんは言い、最後にこう締めくくりました。「確かに、最初はあの裸の男性でした。彼には、大きな功績があります。しかしリーダーだけでなく、フォロワーもまた重要なのです。踊りはじめた一人のバカをリーダーに変えたのは、最初のフォロワーだからです。スゴイことをしている孤独なバカを見つけたら、立ち上がり参加する勇気を持ってください」と。

私たちの社会をより良いものにするためには、アクションを起こすリーダーだけでなく、後に続くフォロワーもまた同じくらい重要なのだという指摘です。後に続く人こそが「バカにされていた人をリーダー」に変え、大きなムーブメントを起すのだと。この考え方は、因だけでなく縁をも重視する、仏教の「縁起の思想」に通じます。

考えてみれば、近頃はインターネットやSNSの普及で、誰もが気軽に意見を発信することができるようになりました。そして小さな声に共感や賛同が集まると、大きな影響力を持つようにもなりました。フォロワーの重要性と可能性がますます高まっている時代ですから、この提案が共感されるのも理解できます。


さて、一見ポジティブなデレクさんの指摘。しかし私には、「あなたは一体、誰をフォローしているのですか」という問いのように聞こえました。より良い社会を作ろうとする人なのか。それとも、彼らをバカにする人なのか。それとも、「どうせ、何も変わらない」という無関心の立場なのか…。関心があろうがなかろうが、私たちの行動はそれぞれの立場のフォローとなり、社会を作り上げている。それだけの責任があることを自覚しているのかと、問われたように感じたのです。



 

 

あるテレビ局に、大人気の討論番組がありました。「そこまで言っていいのか」と思うような、司会者の過激な物言いが売りのこの番組。一つのテーマに二つの立場からゲストが参加するのですが、司会者は片方の意見を、一方的な言葉でバッサリと斬り捨てます。そこに、番組の進行をコントロールするプロデューサーが、司会者にもっと厳しく責め立てるよう指示を出しました。笑顔で「いけ!いけ!いけ!」と。過激になるほどに、視聴率が上がることを知っているから…。

これは、日本の番組ではありません。『そしてテレビは"戦争"をあおった〜ロシアvsウクライナ2年の記録〜』(NHKスペシャル 2016年放送)というドキュメンタリーで紹介された、ロシアの番組です。司会者に責め立てられたのは、ウクライナの人たち。プーチン政権の強い統制下に置かれたロシアのテレビ局は、政権の意向に沿うようにと、何年も前からウクライナを非難する報道を続けていました。正義(ロシア)と悪(ウクライナ)の対立が単純化され、過激になるほど人気が出る。そして人気が出るほど、過激さはエスカレートしていったのです。

その対立は、2014年のロシア軍によるウクライナ南部クリミア半島への軍事侵攻に続いていきます。それを機にウクライナでも、テレビは反ロシア、愛国主義一色の報道に染まります。そこにインターネットやSNSが拍車をかけました。戦闘が始まると、ネット上には残酷な映像が溢れかえり、それをテレビ局が自国に都合良く使う。テレビが世論を変え、世論がテレビをあおることで、対立は激化していったのです。

東京外国語大学名誉教授で哲学者の西谷修さんは、「全体主義的な体制が、弾圧だけでできるわけではない。必ず多くの人がそれを支えている」(NHK 100de名著『戦争論』)と言われます。戦争や弾圧は、一人の独裁者がするのではない。必ずフォロワーによって支えられているのだと。そう考えると、今年二月から行われているロシアのウクライナ侵攻には、このドキュメンタリーのタイトルそのままに、テレビが"戦争"をあおり、テレビをフォローした人たちがまた"戦争"をあおった。そんな背景があったと言えるのではないでしょうか。

でも、このような討論番組は、日本でもよく見かけるものだと思いませんか。分かりやすく、白か黒かの二つに分けて対立をあおる。不祥事や事件を起こしたら、「こいつが黒だ」と徹底的に叩く。過激になるほど、エンターテイメント性は高まり、視聴率も上がる。いつしか政治家も、単純な言葉で対立を煽る物言いが増えました。そちらの方が、メディアに取り上げられ、人々のウケもいいからです。



 
 

しかし冷静に考えれば、人間とはそんなに単純なものではありません。白の中に黒も交じっている。国の中にも色々な意見があり、それぞれの人間が様々な事情を抱えて生きている。一人一人の中にも、グレーな部分はたくさんあります。それが「生身の人間」ではないですか。

完全な正義や、完全な悪はわかりやすい。でも、自分を一面だけで決めつけられたら、誰しも嫌でしょう。にもかかわらず、単純化、決めつけ、過激な対立を支持する人が増えている。だから、テレビもそんな番組を作る。テレビが世論を変え、世論がテレビを煽っていく。これは、ロシアとウクライナだけで起こっていることではありません。私たちの身近で起こっている事実なのです。

戦乱のアフガニスタンで、医療支援のみならず食糧不足解消のために用水路を掘り、復興に生涯をかけた医師の中村哲さんは、「善悪も、美しさと醜さも一緒に抱えて人間は生きている」と語っておられたそうです。中村医師の言葉には、「生身の人間」が感じられます。美しい自然に感動する心を持ち、優しい一面を見せながら、状況によっては残酷なふるまいをしかねない。そんな生身の人間と戦渦の混乱を通して接する中で、「自分もまた、その人間の一人なのだ」という自覚が滲むような言葉です。

それは親鸞聖人の姿勢と通じるように、私には思えるのです。親鸞聖人は、私たちの行いは「雑毒の善」(『浄土文類聚鈔』)であり、真実の行いではないと言われています。まさに、毒が雑じっている。白の中に黒が雑じり、優しさと同時に残酷さも持ち合わせているのが人間なのだ。過信してはならないと、戒めておられます。

「生身の人間」である私たちは、複雑なのです。だからこそ、我が身を振り返り、熟慮し、相手の立場を思う営みが求められるのでしょう。それを忘れ、白か黒かの二つに単純化する時、私たちは優しいままに、正義の名のもとに、過激で残酷なふるまいを支持することにもなるのです。

 



 

ウクライナ侵攻に反対したことで母国を追われ、家族と共に出国したロシア人の社会科学者は、「私はプーチンに投票はしていませんが、長い間無関心で見て見ぬ振りをしてきた。だから、そのことを謝らなければならない」と語っていました。(NHKスペシャル『ウクライナ危機 市民たちの30年』)無関心もまた、一つのアクションであり、フォローだったのだと…。

関心があろうがなかろうが、私たちは誰かを支持している。私たちは、そのことにもっと自覚的にならねばなりません。それが戦争に、つながりかねないということも。

では私は、誰をフォローしているのでしょうか。今、この私が問われています。■