2022(令和4)年9月


スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットが、「お坊ちゃんとは、どんな存在か」を定義しています。「お坊ちゃん」とは、家庭内でのふるまいを外でも行うことができると信じている人間のことを言うのだと。

家庭とは、外では失礼で恥ずかしいとされる行為も、大目に見てもらえる特別な場所です。「母ちゃん、何で起してくれなかったんだ!」と逆切れしたり、靴下を脱ぎ散らかし、ゴミを放りっぱなしにしても、結局は許されるのが家庭というもの。しかしそれは、外では通用しません。にも関わらず、外でも同じくふるまおうとする人を、「お坊ちゃん」主義とオルテガは言うのです。そしてそれは、他の国や文化に対する態度でも同様だと指摘します。自分の価値観のみを正しいと信じるのは、成熟しないグロテスクな有り方であると。

確かに、自分の常識や正義が、他者にも通用するという思い込みは危険です。それぞれの背景、歴史は違うのにも関わらず、それを踏みにじり、一方的に価値観を押し付けることになるのですから。相手の背景に思いを馳せる。そんな想像力や共感力を持った時、人は成熟した大人に成長するのでしょう。


 

 

「ロバと老夫婦」というお話があります。あるところに、ロバを連れた老夫婦が歩いていました。おじいさんはロバに乗り、おばあさんは徒歩でした。
 すると、通りがかりの人から「おばあさんが、かわいそうだ」と言われたのです。そこでおばあさんをロバに乗せ、おじいさんは歩くことにしました。
 すると別の人から、「何て女だ。けしからん!」と怒られたのです。そこで今度は、二人でロバに乗ると、今度は別の人から「ロバがかわいそうだ」と言われてしまいました。
 仕方がなく、二人とも降りて歩くと、また別の人から「あいつらは、ロバの使い方も知らないのか!」とバカにされたというお話です。

おじいさんとおばあさんとロバを見て、周りの人間が色んなことを言います。「おばあさんがかわいそうだ」という人は、優しい人なのかもしれません。でも、おじいさんの足が悪いのではないか、疲れているのではないかという想像力がない。男尊女卑という考えに凝り固まっている人もいれば、動物愛護の人もいる。「ロバの使い方も知らないのか!」という人は、経済合理性の考えが強い人かもしれません。世の中には、いろんな考え方の人がいます。でも共通しているのは、みんな自分の考えが正しいと思い込んでいて、相手の事情を考えることも共感することもない「お坊ちゃん」主義でものを言っているということです。

まさに、今の私たちの社会そのままではないですか。SNSで炎上する。みんなが寄ってたかって叩く。相手の事情を考える想像力も共感力もなく、ただ自分の立場と価値観からものを言う行為は、まさにオルテガの指摘する未成熟でグロテスクなあり方です。そんな状況が広がっているから、どこで何を言われるかわからないと、みんなビクビクしているのではないですか。いちいち言われる通りにする老夫婦の気持ちも、わかるような気がします。

また、「お坊ちゃん」主義は、自分に向けられる温かな想いをも見失わせてしまいます。家庭内において許されることは、私に向けられた家族の温かな想いによるもの。それを、当たり前のように享受しているうちは、気づくこともできないでしょう。人の想いは、見えるものではありません。こちらが、気づく身に育てられなければ、わからないのです。

 



原作は、ナイジェリア風刺漫画家 EB Asukwoの四コマ漫画。
 「全ての人を納得させる難しさ」という題名で、Facebookにも投稿され、話題になりました


 

仏様は、「如実知見」ありのままにものを見るという智慧を持たれた方だと言われます。逆に考えると、仏様ではない私たち凡夫は、ありのままにものを見ることができない存在だということでもあります。つまり私たちはどこまでも、「お坊ちゃん」主義から、逃れられないのだということなのでしょう。

だからといって、開き直ればいいということではありません。自分が見ている景色は、自分の価値観という色メガネを通したものでしかないという謙虚な自覚を持ち、安易に決めつけず、問い直し、見つめ直していく。その営みの中で、想像力や共感力が育てられ、成熟した大人になるのです。

オルテガは、こうも言います。「賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。/ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分がきわめて分別に富む人間だと考えている」(『大衆の反逆』)。つまりは、「自分は成熟した大人だ」という思い込みもまた、「お坊ちゃん」主義なのだと。自分のものの見方に、たえず危険を感じているからこそ、賢者足りうるのだと。

親鸞聖人という方は、一生を通じて「私は凡夫であり、愚者である」という立場を崩されることはありませんでした。それは謙遜で言われているのではありません。自分の弱さや悲しさと、真摯に向き合い続けられた姿であり、オルテガの言う「賢者」の姿勢そのものです。だからこそ、他者の弱さや悲しさ、切なさに寄り添える。親鸞聖人のものの見方が、深く豊かな理由はここにあるのでしょう。

 

先日、ご門徒の方から「亡くなったおばあちゃんの荷物を整理していたら、こんなものが出てきました」と、私の子どもの頃の写真をいただきました。裏には、「極楽寺坊ちゃん一才」という文字が。私は、小さな頃から「お寺の坊ちゃん」と可愛がられ育てられてきました。昔は、そう呼ばれるのがあまり好きではなかったのですが、この写真を大切に保管していたおばあちゃんの顔を思い出すと、温かな想いの中に包まれていたことを、しみじみと気づかされました。

そんな想いを、私はどれだけ受け止めてきたのでしょうか。そして、周りの人の想いをどれだけ想像し、また共感できているのでしょうか。六十歳を手前にして、未だに成熟できない「お坊ちゃん」主義の生き方を、自覚することもなく繰り返しているのではないかと、オルテガや親鸞聖人から問いかけられています。どうやら自分のあり方に、たえず危険を感じる必要がありそうです。■