2007年にイギリスで、一人の幼児が亡くなりました。原因は、虐待と育児放棄。親とその恋人は実刑判決を受けましたが、マスコミはその親を保護する立場の、特に母親と赤ちゃんを担当していたソーシャルワーカー(生活相談員)に問題があったと非難の矛先を向けました。世論もマスコミに乗り叩き始めます。
私たちは、「悪いヤツは罰を受けなくてはならない。罰を受ければ、ヤツらは改心するだろう」と考えがちです。ソーシャルワーカーを叩いた人たちも、そんな正義感からのふるまいなのでしょう。ところが「その後、どうなったのか」を調べてみると…、ソーシャルワーカーの辞職が急増し、現場は大混乱。残った人たちは、担当する件数が倍増。当然、子ども一人にかける時間は減る。叩かれることを怖れ、問題が起きる前に強引な家庭への介入を始める。家族から引き離される子どもの数は飛躍的に増え、裁判所はその保護事案の処理に追われ、その対応に必要な予算は推定1億ポンド(約130億円)も発生しました。当然、子どもたちの心身には大きなダメージが残ります。するとマスコミは、これまでとは逆に「愛する子どもを無理やり奪われる親たち」というストーリーを報道し始めたというのです。(『失敗の科学』マシュー・サイド)
ソーシャルワーカーを非難した人は、自分が発言した後片づけについて、どれだけ考えていたのでしょうか。もちろん、悪気があって非難したわけではありません。むしろ、良かれと思ってしたのです。しかし、その場においては「正しい」と思った言動も、後から検証してみれば、逆に状況を悪化させるものだったということは、いくらでもあり得ます。そのことに無自覚だから、自分たちが煽った結果にも関わらず、状況が変われば今度は逆の立場から非難し始める。現場はますます混乱する。何と無責任で、迷惑な話なのでしょう。
このようなケースは、日本でもよく見聞きするところです。何よりネットやSNSの普及で、軽い気持ちで書き込んだ一言が、大きな影響力を持つ時代になりました。しかしその発言者は、後から「それが効果的だったか」と検証はしませんし、状況を悪化させても「私の責任だ」と名乗り出ることなどありません。
やはり、後片付けは大切なのです。環境問題や原発の核廃棄物もそうです。戦争も、どう終わらせるか、戦後処理をどうするのかが難しい。戦後補償の問題だけでなく、感情的な歪(ひず)みは、七十年以上経っても残り続けるのですから。それは日本に住む私たちが、一番よくわかるはずです。
大きなことから身近なものまで、私たちがすることに後片付けは必ずついてくるのです。しかし、最後まで責任を持てるかというと、なかなかそうはいきません。そもそも自分の言動が、その後どんな影響を及ぼしたのかという検証自体、どこまでの範囲や期間で行うか…と考えると、キリがありません。つまり、すべての後片付けに責任を持つことなどできないのです。ならば私たちは、どこかで誰かに迷惑をかけずには、生きていけない。そう考えるべきではないでしょうか。
にも関わらず、「人に迷惑をかけるな」「自己責任だ」という言葉が、叫ばれて久しい時代です。そして、「迷惑をかけてはいけない」と、プレッシャーを感じ、委縮する人が多くなりました。「人に迷惑をかけるような私は、生きていく資格がない」とまで考える人もいます。そんな、気軽に「助けて」が言えない社会になって、早めに助けを求めれば何とかなった問題も、言えないばかりに深刻化してしまう。そんなケースも多々見られます。
自分がしたことの後片付けもできないのに、「私は人に迷惑をかけていない」「迷惑をかけるようなヤツはダメだ」と言い放ち、無自覚に他人に迷惑をかけ続けている。これは、かなり深い迷いです。
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