2023(令和5)年10月



 

草刈りに凝っています。チップソーとナイロンコード式の二種類の草刈り機を駆使して、今年もたくさんの草を刈りました。

ところで、草刈りで一番大変な作業は何だと思いますか。私はこのテーマを、様々な人と議論してきました。そして出た結論が…「後片付け」です。藪の場合は、刈りっ放しにしておけばいいのですが、道沿いや敷地内だと、刈った後、履いて、集めて、処分しなくてはなりません。これがあるかないかで、肉体的にも精神的にも疲労度は大きく変わってきます。でも、それを含めて草刈り作業なのです。後片付けをしないのは無責任だし、迷惑行為にもなりかねません。

それは草刈りだけに限らず、何でもそうだと思います。後片付けまで考えて、責任ある発言や行動をしなければ。やりっ放し、言いっ放しは、ハッキリ言って迷惑です。では私は、後片付けのことまで考えた言動をしているのでしょうか。よくよく考えねばなりません。




 



2007年にイギリスで、一人の幼児が亡くなりました。原因は、虐待と育児放棄。親とその恋人は実刑判決を受けましたが、マスコミはその親を保護する立場の、特に母親と赤ちゃんを担当していたソーシャルワーカー(生活相談員)に問題があったと非難の矛先を向けました。世論もマスコミに乗り叩き始めます。

私たちは、「悪いヤツは罰を受けなくてはならない。罰を受ければ、ヤツらは改心するだろう」と考えがちです。ソーシャルワーカーを叩いた人たちも、そんな正義感からのふるまいなのでしょう。ところが「その後、どうなったのか」を調べてみると…、ソーシャルワーカーの辞職が急増し、現場は大混乱。残った人たちは、担当する件数が倍増。当然、子ども一人にかける時間は減る。叩かれることを怖れ、問題が起きる前に強引な家庭への介入を始める。家族から引き離される子どもの数は飛躍的に増え、裁判所はその保護事案の処理に追われ、その対応に必要な予算は推定1億ポンド(約130億円)も発生しました。当然、子どもたちの心身には大きなダメージが残ります。するとマスコミは、これまでとは逆に「愛する子どもを無理やり奪われる親たち」というストーリーを報道し始めたというのです。(『失敗の科学』マシュー・サイド)

 

ソーシャルワーカーを非難した人は、自分が発言した後片づけについて、どれだけ考えていたのでしょうか。もちろん、悪気があって非難したわけではありません。むしろ、良かれと思ってしたのです。しかし、その場においては「正しい」と思った言動も、後から検証してみれば、逆に状況を悪化させるものだったということは、いくらでもあり得ます。そのことに無自覚だから、自分たちが煽った結果にも関わらず、状況が変われば今度は逆の立場から非難し始める。現場はますます混乱する。何と無責任で、迷惑な話なのでしょう。

このようなケースは、日本でもよく見聞きするところです。何よりネットやSNSの普及で、軽い気持ちで書き込んだ一言が、大きな影響力を持つ時代になりました。しかしその発言者は、後から「それが効果的だったか」と検証はしませんし、状況を悪化させても「私の責任だ」と名乗り出ることなどありません。

やはり、後片付けは大切なのです。環境問題や原発の核廃棄物もそうです。戦争も、どう終わらせるか、戦後処理をどうするのかが難しい。戦後補償の問題だけでなく、感情的な歪(ひず)みは、七十年以上経っても残り続けるのですから。それは日本に住む私たちが、一番よくわかるはずです。

大きなことから身近なものまで、私たちがすることに後片付けは必ずついてくるのです。しかし、最後まで責任を持てるかというと、なかなかそうはいきません。そもそも自分の言動が、その後どんな影響を及ぼしたのかという検証自体、どこまでの範囲や期間で行うか…と考えると、キリがありません。つまり、すべての後片付けに責任を持つことなどできないのです。ならば私たちは、どこかで誰かに迷惑をかけずには、生きていけない。そう考えるべきではないでしょうか。

にも関わらず、「人に迷惑をかけるな」「自己責任だ」という言葉が、叫ばれて久しい時代です。そして、「迷惑をかけてはいけない」と、プレッシャーを感じ、委縮する人が多くなりました。「人に迷惑をかけるような私は、生きていく資格がない」とまで考える人もいます。そんな、気軽に「助けて」が言えない社会になって、早めに助けを求めれば何とかなった問題も、言えないばかりに深刻化してしまう。そんなケースも多々見られます。

自分がしたことの後片付けもできないのに、「私は人に迷惑をかけていない」「迷惑をかけるようなヤツはダメだ」と言い放ち、無自覚に他人に迷惑をかけ続けている。これは、かなり深い迷いです。








ならば、どうすれば良いのでしょう。「どうせ迷惑をかけるのなら」と開き直り、「自分の好きなこと、やりたいことをやろう!」と、後片付けから目を背けて生きますか。それとも、「迷惑をかけずには生きていけないダメな私」と、卑屈に生きていきますか。親鸞聖人は、そのどちらとも違う生き方を示されました。それは人生の責任を引き受けていく道でもありました。

阿弥陀如来は、迷いを迷いと気づかずに更に迷いを深める者をこそ、願い、許し、救おうとする「慈悲のはたらき」の仏様であり、同時に、迷いの深さに「目覚めよ」と呼び続けてくださる「智慧のはたらき」の仏様でもあるのだと、親鸞聖人は教えてくださいました。それは、迷いの深さに気づくことが、同時に阿弥陀様の慈悲の深さに気づくことであり、慈悲の深さに目覚めることが、同時に自らの迷いの深さに目覚めることだと。

迷いの深さを知るほどに、そんな私を、それでも大切に思ってくださる阿弥陀様の慈悲の深さが知らされる。そのことに目覚める時に、「迷惑をかけている」という卑屈な思いは、「ご恩をいただいている」という感謝へと変わります。かたじけなさに、深い自省と「せめてこれくらいは」という慎みが生まれてくる。周りの人々を、「共に願われていた」「お互いさま」と、許し合い、認め合う、新たな関係が開かれていく。そんな豊かな歩みを、親鸞聖人は示してくださったのです。

 

できないながらも、後片付けを意識しながら生きる。そこに、与えられているご恩に報いる歩みが開かれていく。それこそが、自分の人生の責任を引き受けていく生き方なのだと教えられるのです。■