2023(令和5)年11月



今シーズンまでプロ野球中日ドラゴンズのコーチを務めていた荒木雅博さんは、通算2045安打、盗塁王やベストナインにも輝いた名選手。特に評価の高いのが、守備面です。井端弘和選手との二遊間は「アライバコンビ」と称され、一時代を築きました。

そんな荒木さんが、現役時代イップスに悩まされていたことは、知る人ぞ知る事実です。イップスとは精神面や心理的な原因、もしくは何らかの理由で、今まで出来ていた動作が急に出来なくなる障害のこと。セカンドを守っていた荒木さんは、ファーストへの送球の仕方がわからなくなったのです。

当時、ファーストを守っていたのは、タイロン・ウッズ。ホームラン王に何度も輝いた、強打の外国人選手です。ウッズ選手は守備が苦手で、ボールを捕れる範囲がとても狭く、少しでも逸れれば捕ってくれません。その上、若手でレギュラー選手になったばかりの荒木さんには、プロとしてのプレッシャーが圧し掛かります。ミスをすれば先輩投手の成績につながり、生活にも影響を及ぼす…。「色んなことを考え過ぎていた」と振り返る荒木さん。実はもう一つ問題を抱えていました。右肩を痛めていたのです。肩をかばいながら、一定のところに投げなければならない。長い距離を、強く投げるのは何とかなった。問題は、近い距離。何の変哲もない、正面のセカンドゴロが一番苦しい。感覚が狂い始め、「あれ、どうやって投げていたっけ?」と、気づけばイップスの泥沼に浸かっていました。




 




幸い、深刻な症状までは行かなかったので、誤魔化しながらプレーを続けます。コーチからの、「なんでこんな簡単なこともできないんだ?」という視線に、自尊心を傷つけられました。ウッズ選手に、「それくらい捕ってくれよ」とも思いました。ケガのせいにもしました。

しかしある時、このままでは先がないことに気づきます。「人のせいにしている間は、ゴールは見えてこないので。『あれくらい捕れよな』じゃなくて、『捕れるところに投げよう』と持っていかないと」。ファーストが捕れないなら、捕れるところへ投げよう。肩が痛いなら、痛くない投げ方を探そう。一つ一つ、言い訳を排除していきました。言い訳をしていたら、試合に出られない。

そうして、「基本に戻るしかない」という結論に達しました。野球を始めた頃まで遡り、一から丁寧に、根気よく反復し続けます。考えると動きが止まってしまう。考えずにプレーできるよう、身体が覚え込むまで繰り返す。言葉では簡単ですが、実行するとなると、途方もなく過酷な作業です。

「一回イップスになってしまったら、たぶん野球をやめるまで直らないです」と荒木さんは語ります。そしてイップスと付き合いながら、球史に残る成績と記憶に残るプレーを積み重ね、23年間の選手生活を送られたのです。(『Webスポルティーバ』イップスの深層第2730回菊地高弘)








私たちは、何かトラブルがあると、「誰のせいだ(who=誰)」「どうして、こうなった(why=なぜ)」、「責任者はどこだ(where=どこ)」と考えます。冷静に分析し、解決する道を探るためであれば、とても重要なことです。しかし、自分を差し置き、責任を押しつける人を探すことで終わってはいないでしょうか。まさに、他人のせいにすることには天才的な能力を発揮してしまう。いや人間は、どうしてもそちらの方向に流されてしまうのでしょう。

でも荒木さんは、「人のせいにしている間は、ゴールはない」と語ります。そして考えたのは、「who」「why」「where」ではなく、「どうすべきか(how=どのように)」でした。現実を受け容れ、向き合わなくては、何も始めることはできないのだと。

『大無量寿経』というお経に、「身自当之 無有代者(身、自らこれを当くるに、代わる者有ることなし)」という言葉があります。「自分の人生は、誰にも代わってもらうことはできない」という意味です。思い通りにならなくても、不条理な状況におかれたとしても、誰にも代わってはもらえない。これは厳しい言葉です。しかし、これが人間の事実なのです。

但しそれは、「いじめられても、差別されても我慢しろ」ということではありません。いじめや差別は、尊さを奪うものであり、恥ずかしく悲しい行為です。けれど、もっと悲しいことは、過去に捉われ、過去に縛られ、自分の人生を、その尊さを見失うことではないですか。

誰かのせいにしても、自分の人生は誰にも代わってもらえない。ならば、これから「どうすべきか(how)」を考えていくしかない。もちろんそれを認め、受け容れることは、簡単なことではありません。大きな勇気が必要です。だけども、私の人生はそこにしかないのです。

 







 

荒木さんは苦しんでいた当時、コーチから「気持ちの問題だから」と声をかけられていました。コーチは、励ましのつもりだったのでしょうが、「気持ちの問題で済ませたら、コーチはいらなくないか?」という思いになったそうです。

一方、「アライバコンビ」のパートナーだった、ショートの井端選手は、苦言めいたことは一切なく、「こうやったらいいと思うよ」とアドバイスをくれたそうです。「あぁ、考えてくれてるんだなぁ」と、とても嬉しかった。イップスは、すごく孤独感を覚えるもの。そんなときに周りから「こうやってみたら」と言ってもらえると、一人じゃないと思える。仮に上手くいかなくても、「じゃあまた別の方法を試してみよう」とも思える。やっぱり声をかけてもらえるのは、すごく有り難い。荒木さんは、そう感じたそうです。

自分の人生は、誰にも代わってもらえません。しかし、寄り添い、共に考えてくれる人がいることは、確かな力になるのです。だから今度は、自分がコーチとして「向こうが『もういいです』と言うまで、とことんつき合おうと思っています」と言われるのです。

実はその思いも、苦しい時の支えになっていました。「自分は今イップスで悩んでいるけれど、普通に投げられる程度になれば、同じように悩む子に声をかけられる」と考えることが、現実と向き合う力になったのです。つまり、同じ苦しみを抱える人を想うことも、歩む力になるのです。
 やはり、私たちは一人で生きていくことはできないのでしょう。代わってもらえない人生ではあっても、周りの人々との、そして先を行く人、後を歩む人たちとの出会いが、人生と向き合う勇気を与えてくださるのです。

 

阿弥陀如来という仏様は、いつもこの私に寄り添い、共に歩んでくださる仏様だと教えられます。とはいっても今の時代、なかなかリアリティーがある話として、伝わらなくなりました。しかし、阿弥陀様と共に、苦難の人生を歩まれた方々の歴史は、確かに存在します。その歴史を受けとめて、先人の後ろ姿に導かれ、阿弥陀様と共に苦難の人生を生き抜かれた方々がおられるのです。そしてその歩みは、「このみ教えを、次の世代に伝えなくてはならない」という思いが力となり、支えになっていたとも言えるでしょう。

先人の存在が私の生きる力となり、私の存在がまた先人の生きる力を生み出していく。そんな関係が、阿弥陀如来という存在を通して開かれるというのは、とても素敵なことだと思いませんか。その歴史が、私たちのところに届けられている。これを受けとめないのは、あまりにも勿体ないことだと思うのです。



「身自当之 無有代者」自分の人生は、誰にも代わってはもらえない。この『大無量寿経』の言葉は、ややもすると、私たちを孤独へ突き落とすような厳しい響きを持っています。しかし、この事実に向き合うことで初めて、力となってくださる人々との出会いが開かれる。支えてくださる世界が明らかになる。誰にも代わってもらえないものとして人生を受け止めるからこそ、自分は孤独ではないのだと知らされていくのです。■

 

 





井端さんの、侍ジャパン監督就任が決定しました!