荒木さんは苦しんでいた当時、コーチから「気持ちの問題だから」と声をかけられていました。コーチは、励ましのつもりだったのでしょうが、「気持ちの問題で済ませたら、コーチはいらなくないか?」という思いになったそうです。
一方、「アライバコンビ」のパートナーだった、ショートの井端選手は、苦言めいたことは一切なく、「こうやったらいいと思うよ」とアドバイスをくれたそうです。「あぁ、考えてくれてるんだなぁ」と、とても嬉しかった。イップスは、すごく孤独感を覚えるもの。そんなときに周りから「こうやってみたら」と言ってもらえると、一人じゃないと思える。仮に上手くいかなくても、「じゃあまた別の方法を試してみよう」とも思える。やっぱり声をかけてもらえるのは、すごく有り難い。荒木さんは、そう感じたそうです。
自分の人生は、誰にも代わってもらえません。しかし、寄り添い、共に考えてくれる人がいることは、確かな力になるのです。だから今度は、自分がコーチとして「向こうが『もういいです』と言うまで、とことんつき合おうと思っています」と言われるのです。
実はその思いも、苦しい時の支えになっていました。「自分は今イップスで悩んでいるけれど、普通に投げられる程度になれば、同じように悩む子に声をかけられる」と考えることが、現実と向き合う力になったのです。つまり、同じ苦しみを抱える人を想うことも、歩む力になるのです。
やはり、私たちは一人で生きていくことはできないのでしょう。代わってもらえない人生ではあっても、周りの人々との、そして先を行く人、後を歩む人たちとの出会いが、人生と向き合う勇気を与えてくださるのです。
阿弥陀如来という仏様は、いつもこの私に寄り添い、共に歩んでくださる仏様だと教えられます。とはいっても今の時代、なかなかリアリティーがある話として、伝わらなくなりました。しかし、阿弥陀様と共に、苦難の人生を歩まれた方々の歴史は、確かに存在します。その歴史を受けとめて、先人の後ろ姿に導かれ、阿弥陀様と共に苦難の人生を生き抜かれた方々がおられるのです。そしてその歩みは、「このみ教えを、次の世代に伝えなくてはならない」という思いが力となり、支えになっていたとも言えるでしょう。
先人の存在が私の生きる力となり、私の存在がまた先人の生きる力を生み出していく。そんな関係が、阿弥陀如来という存在を通して開かれるというのは、とても素敵なことだと思いませんか。その歴史が、私たちのところに届けられている。これを受けとめないのは、あまりにも勿体ないことだと思うのです。
「身自当之 無有代者」自分の人生は、誰にも代わってはもらえない。この『大無量寿経』の言葉は、ややもすると、私たちを孤独へ突き落とすような厳しい響きを持っています。しかし、この事実に向き合うことで初めて、力となってくださる人々との出会いが開かれる。支えてくださる世界が明らかになる。誰にも代わってもらえないものとして人生を受け止めるからこそ、自分は孤独ではないのだと知らされていくのです。■
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