ところで、皆さんは「親ガチャ」という言葉をご存知でしょうか。「ガチャ」とは、硬貨を入れてダイヤルを回すと「ガチャ」と音がして、カプセルに入ったおもちゃが出てくるというものです。ゲームセンターやショッピングモール、スーパーにも置いてあります。出てくるカプセルには、何が入っているかはわかりません。もちろん「コレとコレとコレが入っています」という写真は貼ってありますが、欲しいものが出るとは限らない。だから、「やったー!欲しいのが出てきた!」という当りの場合もあれば、「これ、もう持ってるよ。ガッカリ」といった外れもある。つまり、選べないのが「ガチャ」なのです。
そこから、「子どもは親を選べない」「当たりの親もいれば、外れの親もいる」ということを、「親ガチャ」と言うようになりました。この言葉について、「結局は個人の努力の問題だ」といった自己責任論的な意見や、「親としては悲しい」という親目線での声が上がり、話題となったのです。
しかし現実には、暴力を振るったり、異常に束縛したり、子どもを所有物のように扱う親もいるわけです。そんな過酷な状況にいる子のことを考えれば、こんな言葉が出てくるのも、わかるような気がします(近頃は「上司ガチャ」「先生ガチャ」という言葉もあるのだとか。実は私も、外れだと言われているのかも…)。
ところが、「親ガチャ」という言葉は、過酷な環境にいる子どもたちが使っているだけではありません。実は、裕福な家庭で育った子どもたちも使っているのだそうです。「お前んちはいいなぁ。海外に別荘があって。うちは、軽井沢にあるだけだよ。親ガチャ外れだ」といった様に。環境に恵まれているにも関わらず、人と比べてうらやましく思い、「親ガチャ」という言葉を使っている。人間は、環境が良くなっても満足しないのですね。確かに、無明煩悩は一生消えず、絶えないようです。
とはいえ、過酷な状況にいる子どもたちに「環境が変わっても、満足するとは限らないよ」とは言ってはなりません。それはあまりにも傲慢で、失礼な態度です。仏法は「縁(関わり つながり 条件)」を重視する教えですから、環境が与える影響もまた重要視します。より良い環境となるのであれば、時には逃げ出すことも、助けを求めることも必要なのです。
つまり、環境をより良くしていくこと、人生とどう向き合うかを考えること、どちらも大切にしなくてはならないのでしょう。隣をうらやんでも、仕方がない。それを受け止めてなお、より良いものにするにはどうすべきかを考えねば。私の人生は、ここにしかないのですから。
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