2023(令和5)年12月



今月の言葉は、せっかちな私には耳が痛い言葉です。スーパーのレジも、渋滞の高速道路の車線も、隣の方が早く感じる。だからといって隣に移動してみると、結局あまり変わらなかったり、逆に遅かったりするのですが…。どうして私って、隣のレジや車線は早く見え、隣の芝生は青く見えるのでしょうか。

親鸞聖人は、「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と示されています。凡夫である私には、無明煩悩(真実を明らかに見ることができないという迷いの根源)が満ち満ちていて、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもないのだと。親鸞聖人のご指摘を、私の状況に当てはめてみると、「真実を明らかに見ることができないから、自分の置かれている環境に腹を立て、人をうらやましく思い、嫉妬する」ということになるのでしょうか。

真実を明らかに見ることができないから、他人が持っているものや環境が、やたらと良く見えてしまう。「あっちのレジは、流れている。うらやましい」「あっちの環境の方が、良いんじゃないか」、そんなことを思って隣に移っても、結局あまり変わらない。レジや車線くらいなら笑い話で済まされますが、人生までもそう受け止めてしまうと困りものです。他人と比較しては落ち込み、恵まれているものに気付くこともできず、人生を見失いかねません。




 




ところで、皆さんは「親ガチャ」という言葉をご存知でしょうか。「ガチャ」とは、硬貨を入れてダイヤルを回すと「ガチャ」と音がして、カプセルに入ったおもちゃが出てくるというものです。ゲームセンターやショッピングモール、スーパーにも置いてあります。出てくるカプセルには、何が入っているかはわかりません。もちろん「コレとコレとコレが入っています」という写真は貼ってありますが、欲しいものが出るとは限らない。だから、「やったー!欲しいのが出てきた!」という当りの場合もあれば、「これ、もう持ってるよ。ガッカリ」といった外れもある。つまり、選べないのが「ガチャ」なのです。

そこから、「子どもは親を選べない」「当たりの親もいれば、外れの親もいる」ということを、「親ガチャ」と言うようになりました。この言葉について、「結局は個人の努力の問題だ」といった自己責任論的な意見や、「親としては悲しい」という親目線での声が上がり、話題となったのです。

しかし現実には、暴力を振るったり、異常に束縛したり、子どもを所有物のように扱う親もいるわけです。そんな過酷な状況にいる子のことを考えれば、こんな言葉が出てくるのも、わかるような気がします(近頃は「上司ガチャ」「先生ガチャ」という言葉もあるのだとか。実は私も、外れだと言われているのかも…)。

ところが、「親ガチャ」という言葉は、過酷な環境にいる子どもたちが使っているだけではありません。実は、裕福な家庭で育った子どもたちも使っているのだそうです。「お前んちはいいなぁ。海外に別荘があって。うちは、軽井沢にあるだけだよ。親ガチャ外れだ」といった様に。環境に恵まれているにも関わらず、人と比べてうらやましく思い、「親ガチャ」という言葉を使っている。人間は、環境が良くなっても満足しないのですね。確かに、無明煩悩は一生消えず、絶えないようです。

とはいえ、過酷な状況にいる子どもたちに「環境が変わっても、満足するとは限らないよ」とは言ってはなりません。それはあまりにも傲慢で、失礼な態度です。仏法は「縁(関わり つながり 条件)」を重視する教えですから、環境が与える影響もまた重要視します。より良い環境となるのであれば、時には逃げ出すことも、助けを求めることも必要なのです。

つまり、環境をより良くしていくこと、人生とどう向き合うかを考えること、どちらも大切にしなくてはならないのでしょう。隣をうらやんでも、仕方がない。それを受け止めてなお、より良いものにするにはどうすべきかを考えねば。私の人生は、ここにしかないのですから。











キリスト教の神学者ラインホルド・ニーバーが神に捧げた、有名な祈りの言葉があります。

   「主よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと、 
    変えられるものを変える勇気と、 
    その両者を見分ける英知を 我に与え給え」(渡辺和子訳


 人生には受け入れなくてはならないことがある。同時に、人生にはより良いものへと変えていけることがある。これこそ、人生との向き合い方なのだと。「ニーバーの祈り」と呼ばれているこの言葉は、多くの人の心を揺り動かし、その歩みを促してきました。

 







 

とはいえ、真実を明らかに見ることができない私です。気がつけば、変えられないものと変えるべきものが区別できずに、妬み嫉んでいます。ならば、発想を逆にしてみればどうでしょう。人の人生がうらやましく思えた時こそ、自分の人生と向き合うチャンスだと考えることができるのではないでしょうか。自らのあり方に立ち戻り、地に足をつけて振り返る機会だと。

立ち戻る場所があり、依るべき所がある。ニーバーにとってはそれが神であり、私には阿弥陀様なのです。我に返ることができる場所があるからこそ、人生を見つめ直し、何度でも歩み直すこともできるのでしょう。そんな営みは同時に、この私に向けられた慈しみや恵みを、少しずつ気づかせてもくださるのです。■