2023(令和5)年2月

私は、葬儀やお通夜にお参りする際に、皆さんが揃われた前で「葬儀とは笑いあり、涙あり≠ネんですよ」と言うようにしています。なぜなら、「善意の第三者」から遺族を守るために。

近頃は、インターネットやSNSが普及することで、様々な声が取り上げられる時代になりました。その為、これまで届かなかった少数意見や、違った角度からの価値観も、注目されるようにもなりました。それはとても大切なことですが、同時に自分の意見や価値観だけで決めつけた言葉も、飛び交うようになったのです。「お葬式に笑うなんて、不謹慎だ!」といった言葉も。

でも、葬儀は別れを悲しむ場だけではありません。亡き方と出会い直す場でもあるのです。あんなことがあった、こんなこともあったと、共に過ごした日々を振り返る。そこには、笑いもあるし、涙もある。それが人生というものではないですか。葬儀では、久しぶりの再会もあるでしょう。そこに生まれる笑いも、亡き方からの贈り物だといえると私は思っています。

それを「笑うなんて、不謹慎だ!」と決めつけるのは、葬儀を知らない人の、いや人生というものを深く知らない人の一方的な意見です。モチロン、そんなことを言う人はごく一部ですが、近頃は「誰かから、何か言われるのでは」と怖れる空気があるのは確かです。そんな空気が自粛ムードを作り上げてしまい、葬儀から人間性が失われてはなりません。だからこそ、「葬儀とは笑いあり、涙あり=vだと一言添えるようにしているのです。

そして、実は悲しみ方も人それぞれなのです。号泣される人もあれば、悲しすぎて涙が出ない人もいます。傍からはしっかりしているように見えて実は深く傷ついている人もいますし、悲しみを内に秘めて何年も経ってから涙を流される方もあります。私は葬儀や、その後の七日参りや法事で、そんな人たちをたくさん見てきました。人間って、安易に決めつけることはできないことを、つくづく思い知らされています。



 



ところで「善意の第三者」とは、元々法律用語で、「知らずに取引関係に入った第三者」を意味します。例えば、AさんのものをBさんが盗んでCさんに売ったというケースでは、Cさんが盗まれたものだと知らなかった場合は共犯者とは見なされない。つまり法律の場では、知った上で罪を犯すことを「悪意」、事情を知らずに行うことを「善意」といい、「善意」は罪に問われないのです。 

しかし法律でオッケーだから、何をしても良いわけではありません。子どもの「知らなかったから」という言い訳に、「じゃあ、法律に問われないから大丈夫だ」という大人はいないでしょう。

ある女性が、子どもさんの病気や、様々なトラブルを抱えていました。周りの人たちは、彼女に同情しています。ところがある人が、彼女が友人とランチをしている姿を見かけ、「あの人、大変だって聞いていたけど、ランチができる余裕があるんだね」と、嫌味たっぷりに話していたというのです。無邪気な発言です。しかし、とても残酷な言葉でもあります。少し想像してみれば、時にはランチでもして気分転換しないと、精神的に持たないことはわかるはず。気分転換さえ許されないのなら、ますます厳しい状況に追い込まれてしまいます。

「可哀相な人は、いつも可哀相な顔をして過ごすべきだ」という、安易な決めつけは、何も知らない第三者の意見です。当事者になれば、そんなわけにはいきません。人間の営みは、安易に決めつけられるものではないのです。時には気を晴らすことも必要だし、そして苦しみや悲しみの中にも、ささやかな喜びや笑いはあります。ところが、決めつけている側は「善意」なだけに、自分の言葉がどんな影響を及ぼしているかを想像することもありません。しかしその「善意」は、確実に彼女を追い込んでいくのです。

「善意」が、人を傷つけていく。いや、知らないからこそ無邪気に、そして残酷に人を傷つける。SNSやインターネットは、そんな「善意の第三者」のコメントで溢れています。その言葉に傷つき、死を選ぶ人もいます。そして、それが「いつ私に向けられるだろうか」と怯える空気も、確実にこの社会を覆っている。結局、自分をも苦しめていくことになるのです。



 



仏教が警戒する三大煩悩のひとつ「愚痴」は、真理に対する無知をあらわます。無知こそが、誤った行いの原因になるのだと。そして、それは「無明」とも表現されています。「無明」と聞くと大抵の人は、何も見えない暗闇の中で手さぐりしながら彷徨う姿を思い浮かべるのではないでしょうか。「何も見えない(無明)=何も知らない(無知)」というイメージを。


 ところが、真宗大谷派の僧侶・藤場俊基先生は「無明とは、もっと深い迷いのことだ」と、指摘されています。自分が迷っていると知っている者は、道を探し、求めようとする。しかし、迷っている自覚を持たない者は、道を探そうともせず、気づくこともなく、ますます迷いの奥に突き進んでいく。そんな、確信に満ちた迷いの有り様を「無明」というのだと。
(『親鸞の教行信証を読み解くT』)

確かに、「知らない」という自覚があれば、謙虚な態度で聞くことも、自分の行為を振り返ることもするでしょう。しかし、「知っている」という確信が強いほどに、聞こうともせず、振り返ることもしなくなります。「善意」で行っているという思いが強いほど、たとえ間違っていても、そこに傷ついた人が生み出されていても気づくことはありません。こちらの方が、迷いはもっと深い。うなずける話です。

私たちは、自分には知らないことがあるのだと、自覚すべきなのでしょう。だまっている人にも、それぞれに思いがあるのです。それを想像することもなく、自分の判断や価値観だけで安易に決めつける行為は、まさに自他共に苦しみを生み出す行為です。そして、そんな自分の姿に気づかせてくださるのが、阿弥陀様の智慧のはたらきなのだとも、教えられるのです。

 




 

チェコの作家ミラン・クンデラに、「人々の愚かさというものは、あらゆるものについて答えをもっているということからくるのだと、自分は思う」という言葉があります。私たちは、「答え」を求める社会に生きています。しかし、「答え」を持ってしまうと、そこで考えることを止めてしまう。相手を、そして自分を決めつけてしまう。それが愚かな行いを生み出すのだと。

立ち止まり、相手の言葉に耳を傾ける。自分の意見や価値観を問い直し、違った角度から見つめ直してみる。それこそが、自他共に豊かな人生が開かれる第一歩なのではと、考えさせられています。■