ところで「善意の第三者」とは、元々法律用語で、「知らずに取引関係に入った第三者」を意味します。例えば、AさんのものをBさんが盗んでCさんに売ったというケースでは、Cさんが盗まれたものだと知らなかった場合は共犯者とは見なされない。つまり法律の場では、知った上で罪を犯すことを「悪意」、事情を知らずに行うことを「善意」といい、「善意」は罪に問われないのです。
しかし法律でオッケーだから、何をしても良いわけではありません。子どもの「知らなかったから」という言い訳に、「じゃあ、法律に問われないから大丈夫だ」という大人はいないでしょう。
ある女性が、子どもさんの病気や、様々なトラブルを抱えていました。周りの人たちは、彼女に同情しています。ところがある人が、彼女が友人とランチをしている姿を見かけ、「あの人、大変だって聞いていたけど、ランチができる余裕があるんだね」と、嫌味たっぷりに話していたというのです。無邪気な発言です。しかし、とても残酷な言葉でもあります。少し想像してみれば、時にはランチでもして気分転換しないと、精神的に持たないことはわかるはず。気分転換さえ許されないのなら、ますます厳しい状況に追い込まれてしまいます。
「可哀相な人は、いつも可哀相な顔をして過ごすべきだ」という、安易な決めつけは、何も知らない第三者の意見です。当事者になれば、そんなわけにはいきません。人間の営みは、安易に決めつけられるものではないのです。時には気を晴らすことも必要だし、そして苦しみや悲しみの中にも、ささやかな喜びや笑いはあります。ところが、決めつけている側は「善意」なだけに、自分の言葉がどんな影響を及ぼしているかを想像することもありません。しかしその「善意」は、確実に彼女を追い込んでいくのです。
「善意」が、人を傷つけていく。いや、知らないからこそ無邪気に、そして残酷に人を傷つける。SNSやインターネットは、そんな「善意の第三者」のコメントで溢れています。その言葉に傷つき、死を選ぶ人もいます。そして、それが「いつ私に向けられるだろうか」と怯える空気も、確実にこの社会を覆っている。結局、自分をも苦しめていくことになるのです。
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