2023(令和5)年4月


今月は、お笑い芸人スピードワゴンの小沢一敬さんの言葉をご紹介します。角度の違う思考力とキザな言い回しが持ち味の小沢さん。この言葉も面白い指摘ですし、日頃から「上手いことを言うなぁ」と感心させられています。私も、こんなに的確で、ユーモアにあふれた表現ができたら良いなぁと思うのですが、自分の思いを言葉にするのは難しい。知性の足りなさを痛感しているところです。

私は「言いたいことがあるけれど、何と表現していいかわからない」というモヤモヤした思いを持っている時、本を読んでいて「そうそう!オレが言いたかったことって、こういうことだったんだよ!」と声に出したくなるような文章に出会うことがあります。ミュージシャンの歌詞にも、自分の思いが的確に言い当てられたようなフレーズがあって、「そうなんだよなぁ」としみじみ感じることもあるのです。言葉にならない思いが、形となって目の前に現れたような感覚。しかも、その言葉が足掛かりとなって、またひとつ考えが深まるきっかけになるような。そんな言葉に出会うことは大きな喜びです(実は私の文章って、「言い当てられた言葉」が散りばめられています。ただ、それはパクリではなく、学びの結果と受け止めていただきたいのです)。良き言葉に、人は導かれ、救われ、育てられることを、実感しています。



 


身近なところでいえば、金子みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」や、『世界で一つだけの花』の「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」という言葉は、衝撃的でした。競争や比較に疲れ、自分を見失っていた人たち。押しつけられた価値観に、違和感を抱いていた人たちが、この言葉に出会い「そうそう!私が言いたかったことって、こういうことなんだ!」と思い共感した。だからこそ、物凄い勢いで日本中を覆い尽くしたのです。

ところが、大切な言葉は、大切に使わないと劣化していきます。安易に、雑に使われ、消費されるほどに手垢がついて、飽きてくる。そして、「努力をしないヤツの言い訳だ」「向上心を失わせる」「現実逃避だ」と言われたり、「みんな違っていいんだから、あいつのことなんて関係ない(みんなちがって、どうでもいい)」という態度を正当化するために使われたりして。今ではすっかり、あの輝きは失われてしまいました。

やはり、言葉は「生き物」であり「生もの」なのだと思い知らされます。そして、言葉は万能ではなく、限界があることも。ある場面ではとても心に響いた言葉が、違う場面でも有効かというと、そうとは限りません。また、自分に響いた言葉が、みんなにも響くわけでもないし、逆に人を傷つけることもあります。なぜなら、置かれている状況も、悩んでいるポイントも、それぞれ違うから。やはり、言葉を雑に扱うことは要注意なのです。大切な言葉が劣化しないように、安易に振り回して人を傷つけぬように、常に気をつけなくてはなりません。だからこそ、仏教では「不妄語戒」(誠実さのない言葉を言わない)や「義に依りて語に依らざれ」(言葉の真意が大切であり、言葉の表面に捉われてはいけない)など、言葉への向き合い方に、常に警鐘を鳴らしています。







ところで、親鸞聖人の主著『教行信証』の書き出しは、「竊以(ひそかにおもんみれば)」という言葉で始まります。これは、「自らの思慮分別を超えた、仏様のさとりの領域を、私なりに考えてみると」という意味で、様々な祖師の著述にも見られる表現です。私はこの言葉に、限りない謙虚さと覚悟を感じるのです。本来さとりは、言葉にできないもの。それを言葉にすることは、さとりの世界を陳腐なものにしかねない。しかし私たちは、言葉にしなくては理解できず、伝えることもできない。その限界性を知りつつ、それでもなお語らなくてはならないという覚悟が込められた、背筋が伸びるような言葉だと、私は思うのです。

私たちが日頃話す時に、それだけの覚悟を持つべきだと言うつもりはありません。ただ、親鸞聖人の姿勢を通して、世の中には言葉には表せないことがあり、それに対して謙虚に向き合わねばならないことを、学ぶ必要はありそうです。

その代表格が、「悲しみ」や「痛み」だと言えるでしょう。大切な人を失った悲しみ、過酷な環境下で抱えた生きづらさ、差別や偏見…。そんな「悲しみ」「痛み」は、周りが安易に「私も、その気持ちわかる」「私にも経験があるから」「こういう気持ちなんでしょう?」と言葉にしてしまうと、薄っぺらなものになりかねません。「私の知性は、あなたの思いを言い当てられる」という思い込みは、傲慢でしかないのです。それぞれの悲しみは、それぞれに違う。「私はそれを耐えた。だから、あなたも耐えるべきだ」などと決めつけられてしまうと、人は深く傷つきます。だからこそ、口籠るしかない場合もある。黙って、寄り添うしかないこともあるのです。何を語らないか、何を語ってはならないかという態度は、相手への思いやりや配慮が生み出していくのでしょう。それを品性というのだと思います。

消費社会である現代は、様々なものが消費される時代です。メディアでは多くの言葉が安易に、そして垂れ流されるように消費されています。たとえそれが、大切にすべき言葉であったとしても。そんな時代に流されぬよう、時には立ち止まり、口籠る。そんな営みを心掛けねば、知性が足りないだけではなく、品性まで賤しくするのではと、我が身を心配する今日この頃です。■