ところで、親鸞聖人の主著『教行信証』の書き出しは、「竊以(ひそかにおもんみれば)」という言葉で始まります。これは、「自らの思慮分別を超えた、仏様のさとりの領域を、私なりに考えてみると」という意味で、様々な祖師の著述にも見られる表現です。私はこの言葉に、限りない謙虚さと覚悟を感じるのです。本来さとりは、言葉にできないもの。それを言葉にすることは、さとりの世界を陳腐なものにしかねない。しかし私たちは、言葉にしなくては理解できず、伝えることもできない。その限界性を知りつつ、それでもなお語らなくてはならないという覚悟が込められた、背筋が伸びるような言葉だと、私は思うのです。
私たちが日頃話す時に、それだけの覚悟を持つべきだと言うつもりはありません。ただ、親鸞聖人の姿勢を通して、世の中には言葉には表せないことがあり、それに対して謙虚に向き合わねばならないことを、学ぶ必要はありそうです。
その代表格が、「悲しみ」や「痛み」だと言えるでしょう。大切な人を失った悲しみ、過酷な環境下で抱えた生きづらさ、差別や偏見…。そんな「悲しみ」「痛み」は、周りが安易に「私も、その気持ちわかる」「私にも経験があるから」「こういう気持ちなんでしょう?」と言葉にしてしまうと、薄っぺらなものになりかねません。「私の知性は、あなたの思いを言い当てられる」という思い込みは、傲慢でしかないのです。それぞれの悲しみは、それぞれに違う。「私はそれを耐えた。だから、あなたも耐えるべきだ」などと決めつけられてしまうと、人は深く傷つきます。だからこそ、口籠るしかない場合もある。黙って、寄り添うしかないこともあるのです。何を語らないか、何を語ってはならないかという態度は、相手への思いやりや配慮が生み出していくのでしょう。それを品性というのだと思います。
消費社会である現代は、様々なものが消費される時代です。メディアでは多くの言葉が安易に、そして垂れ流されるように消費されています。たとえそれが、大切にすべき言葉であったとしても。そんな時代に流されぬよう、時には立ち止まり、口籠る。そんな営みを心掛けねば、知性が足りないだけではなく、品性まで賤しくするのではと、我が身を心配する今日この頃です。■
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