『観無量寿経』や『涅槃経』などの経典に、古代インドのマカダ国のアジャセ王という人物が出てきます。王の座に就いた彼は、大きな苦悩を抱えていました。彼は王位継承にあたり、父である先王を幽閉し殺害、後には母も幽閉したからです。次第に、自分がしたことに罪深さを感じていくアジャセ。熱を出し、皮膚はただれるほど、身心共に苦しみ始めます。
そこで家臣たちは、アジャセの苦しみを抜こうと、それぞれに当時の有名な思想家たちを招きました。ところが彼らは「あなたに責任はない」「気にするな」といった、現実から目を背け、責任を回避することばかり語ります。しかしアジャセの苦しみは、そんな話では救われませんでした。
その後アジャセは、ギバという大臣の薦めによって、お釈迦様のもとへ行くことになります。そのきっかけは、ギバの「あなたは自分の犯した罪の重さを知り、慚愧の思いを起している。それは素晴らしいことだ」という一言でした。苦しみから抜け出すには、自分のしたことに責任を持って向き合うことからしか始まらない。その言葉に魅かれ、ギバの導きでお釈迦様のところへ行くことを決めるのです。
実はアジャセは、自分の罪によって地獄に堕ちることを、最も恐れていました。お釈迦様にも「地獄に堕とさないでください」と頼み、ギバには「私だけ堕とさないでくれ。お前、何とかしてくれ」と、何ともみっともない姿を晒します。
そんなアジャセは、結論から言えば、お釈迦様に出遇い救われていきます。それは、地獄に堕ちない身になれたからではありません。アジャセは、こう語るのです。「もし、生きとし生ける者の苦しみを壊すことができるなら、私は地獄に堕ちても後悔しない」と。
実はこれこそが、地獄の恐怖を乗り越える唯一の方法なのでしょう。「極楽に往けるから、地獄に堕ちなくて済む」ということであれば、地獄を恐れる気持ちは残っています。地獄を克服するためには、地獄に堕ちても後悔しないといえる人間となることしかない。そう覚悟できるほどの大切な歩みと出遇うしかない。そこにこそ、本当の安心が生まれてくるのだと教えられるのです。
親鸞聖人は、このアジャセが救われていく様を、とても大切にされ、自らが救われていく様に重ねられています(私も大好きな箇所で、ここを読むと、いつも感動で心が震えます。特に、コンプレックスとの向き合い方においては、重要な指摘だと思います)。
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