2023(令和5)年5月


「カーリング」という競技をご存知でしょうか。氷の上を滑らせたストーンを、先回りした選手がブラシで氷を擦り、自分の思う方向へと操作し、点数を競うこのスポーツ。冬のオリンピックでも大人気です。

では、「カーリングペアレント」はご存知ですか?これは、カーリングのように先回りして、子どもの障害物をあらかじめ取り除き、自分の思う方向に操作する過保護で過干渉な親のことだそうです。同じ意味で、「ヘリコプターペアレント」という言葉もあります。ヘリコプターのように、子どものまわりを旋回して見張り、何か起きるたびにすぐに飛んでくる親だから。



 


どちらも子ども可愛さ故の行動なのでしょうが、過保護、過干渉で育てられた子どもは、問題を解決する能力が育たず、親の顔色ばかり伺うようになり、自分で決めることができなくなるようです。また、精神的にも不安定になるなどの悪影響が指摘されています。やはり子どもの成長には、様々な経験が必要なのですね。親が、子どもの経験を奪ってはいけません。特に、失敗の経験は重要です。思い通りにならない問題に向き合うことは、「これを解決するにはどうすれば」と考え、工夫し、助け合うなど、様々な学びにつながります。

「成功から学ぶことは少ない。人は失敗から学ぶ」と言われた方がありましたが、確かにその通り!成功している時は、調子に乗っている分、うかつに見落としていることが多いもの。失敗し、立ち止まり、自分を振り返らなくてはならない時ほど、学びや発見はたくさんあります。

私たちは、失敗や間違いは、恥ずかしく嫌なことだと思ってはいないでしょうか。だから過保護な親が、「子どもに、そんな思いをさせたくない」と考え、その経験を奪おうとするのでしょう。何より、「私は間違っていない」と失敗を認めない、目を背けて反省しない、誰かに責任を押しつけて向き合わないという態度は、新たな自分と出会うチャンスを失ってしまいます。きちんと失敗や負けに向き合うことこそ、とても大切な経験なのです。

現代史家の秦郁彦さんは、太平洋戦争末期の日本における青年将校の暴走は、負けた経験がなかったことにあると指摘されています。欧米のように、勝ったり負けたりといった体験をしていると、負けた時の状況も自ずから想像がつく。落としどころをどの辺りにすべきかという交渉もできる。しかしエリートで、しかも敗戦体験がなかった彼らは、「負けるくらいなら、一億玉砕だ」といった極端で狂気的な発想になってしまったのだと。(NHKスペシャル『半藤一利「戦争」を解く』)

転んだ経験を通して、転び方や立ち上り方を学ぶのです。転んだことがないままに歳を重ねると、少しの躓きで「人生が終わった」と勘違いしかねません。

やはり親が本当に安心できるためには、子どもが「失敗しても大丈夫」と言えるように育つしかないのでしょう。失敗しても、敗けても、落ちても大丈夫と思えることが、本当の安心を生むのです。失敗しないこと、落ちないことにしがみついている間は、どこまで行っても不安はつきまとってきます。







『観無量寿経』や『涅槃経』などの経典に、古代インドのマカダ国のアジャセ王という人物が出てきます。王の座に就いた彼は、大きな苦悩を抱えていました。彼は王位継承にあたり、父である先王を幽閉し殺害、後には母も幽閉したからです。次第に、自分がしたことに罪深さを感じていくアジャセ。熱を出し、皮膚はただれるほど、身心共に苦しみ始めます。

そこで家臣たちは、アジャセの苦しみを抜こうと、それぞれに当時の有名な思想家たちを招きました。ところが彼らは「あなたに責任はない」「気にするな」といった、現実から目を背け、責任を回避することばかり語ります。しかしアジャセの苦しみは、そんな話では救われませんでした。

その後アジャセは、ギバという大臣の薦めによって、お釈迦様のもとへ行くことになります。そのきっかけは、ギバの「あなたは自分の犯した罪の重さを知り、慚愧の思いを起している。それは素晴らしいことだ」という一言でした。苦しみから抜け出すには、自分のしたことに責任を持って向き合うことからしか始まらない。その言葉に魅かれ、ギバの導きでお釈迦様のところへ行くことを決めるのです。

実はアジャセは、自分の罪によって地獄に堕ちることを、最も恐れていました。お釈迦様にも「地獄に堕とさないでください」と頼み、ギバには「私だけ堕とさないでくれ。お前、何とかしてくれ」と、何ともみっともない姿を晒します。

そんなアジャセは、結論から言えば、お釈迦様に出遇い救われていきます。それは、地獄に堕ちない身になれたからではありません。アジャセは、こう語るのです。「もし、生きとし生ける者の苦しみを壊すことができるなら、私は地獄に堕ちても後悔しない」と。

実はこれこそが、地獄の恐怖を乗り越える唯一の方法なのでしょう。「極楽に往けるから、地獄に堕ちなくて済む」ということであれば、地獄を恐れる気持ちは残っています。地獄を克服するためには、地獄に堕ちても後悔しないといえる人間となることしかない。そう覚悟できるほどの大切な歩みと出遇うしかない。そこにこそ、本当の安心が生まれてくるのだと教えられるのです。

親鸞聖人は、このアジャセが救われていく様を、とても大切にされ、自らが救われていく様に重ねられています(私も大好きな箇所で、ここを読むと、いつも感動で心が震えます。特に、コンプレックスとの向き合い方においては、重要な指摘だと思います)。

   




 

一般的に受け止められている宗教の救いとは、「悪いことが起こらない」「地獄に堕ちない」「神様がカーリングのように先回りして障害物を取り除いてくれる」「仏様が、ヘリコプターのように、何かあったらすぐに飛んできてくれる」、そんなはたらきだと、思われてはいないでしょうか。

阿弥陀様の救いは、まったく違います。私の人生は、あくまでも私が歩むもの。ただ、その歩みを確かなものとする力を、与え、育ててくださるのです。■