ところが近頃は、そんな言葉を聞かなくなりました。「背中が語る」ものを、感じとる力が衰えてきたからでしょうか。それとも、学びたいと思わせるほどの生き方を見せる人がいなくなったからなのでしょうか。そもそも、生き方や本質を問うことさえ、なくなった気がします。
しかし、どんな時代になったにせよ、私たちが背中を晒して生きていることに、変わりはありません。日本人は、人の目を気にする傾向が強いと言われます。世間体が気になる。空気を読む。みんなと一緒だということに安心感を覚える。誰しも、心当たりがあるのでは。ならばもう少し、背中を見られていることを、つまりは自分の生き方そのものを、気にした方が良いのではないでしょうか。
いやもしかすると、悪いことも、恥ずかしいことも、みんながやっていれば平気だという感覚になっているのかも。かつて、「赤信号 みんなで渡れば怖くない」という名言がありましたが、「みんなが恥ずかしい背中を晒しているのなら、私も平気だ」という空気になっているのかもしれません。そんな背中を、誰が「追いかけたい」「学びたい」と思うのでしょうか。
親鸞聖人は、世間体や周りの目を気にする方ではありませんでした。聖人が意識されたのは、ただ阿弥陀様のまなざしではなかったか。私は、そう思っています。
人に見られていると思うと、どうも落ち着きませんよね。どこで、どんな陰口を言われているか不安になり、みんなの行動やその場の空気を、いつも気にしていかなくてはならなくなる。時には、そのストレスで「背中を丸めた」生き方になってしまうことも…。
しかし、阿弥陀様はどんなに愚かな私でも、決して「背を向け」ず、どこまでも私に寄り添ってくださる仏様なのです。だから、安心して「背中を預ける」ことができる。同時に私が、より良い生き方へと踏み出すよう励まし、「背中を押」してくださる存在でもあるのです。親鸞聖人は、阿弥陀様に支えられ、確かな人生を歩まれました。その生き方に、その背中に導かれ、また歩み始めた人がいた。そんな歩みの歴史が、私たちのところにまで至り届いているのです。
私たちには、自分の背中は見えません。つまり、自分の生き方がどんなものなのか、実は自分では分からないということです。見えているのは、人の背中だけ。ならば、どんな人の「背中を追いかけて」いるのか。誰のまなざしを意識するのか。その態度こそが、自分の生き方を、背中を明らかにするのではないかと思うのです。
私は、誰の背中を追いかけているのでしょう。どんな生き方をしているのでしょうか。常に、常に問い直していかねばなりません。■
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