2023(令和5)年6月




背中は、単に身体の一部分を指すだけではなく、様々な意味が込められる言葉です。

例えば、「背を向ける」といった時には、後ろを向くこと以外に、無関心や反抗する態度、見捨てる行為が表されますし、「背中を丸める」は猫背になった状態だけではなく、落胆や悲しさ、ひもじさが感じられます。「背中を押す」は、人が踏み出せるよう励まし手助けをすることですし、「背中を預ける」とは、信頼して任せる意味になります。

また背中は、自分では見ることができません。無防備に人に晒し、隠すことができない箇所でもあります。そこから、その人の隠しようがない本質や生き方を表す意味にも使われます。「背中を見せる」とは、自らが行動で示すことですし、「背中で語る」とは、あえて言葉にせず、生き方で伝えること。テレビアニメ『ルパン三世』の主題歌には、「背中で泣いてる男の美学」という歌詞が出てきます。心では泣きたくとも、腹にしまって笑顔を見せる。それが男の美学。でもそれは、背中には表れてしまうということなのでしょうか。そのカッコ良さを真似て、追いつこうとすることを「背中を追う」といいますね。




 



ところが近頃は、そんな言葉を聞かなくなりました。「背中が語る」ものを、感じとる力が衰えてきたからでしょうか。それとも、学びたいと思わせるほどの生き方を見せる人がいなくなったからなのでしょうか。そもそも、生き方や本質を問うことさえ、なくなった気がします。

しかし、どんな時代になったにせよ、私たちが背中を晒して生きていることに、変わりはありません。日本人は、人の目を気にする傾向が強いと言われます。世間体が気になる。空気を読む。みんなと一緒だということに安心感を覚える。誰しも、心当たりがあるのでは。ならばもう少し、背中を見られていることを、つまりは自分の生き方そのものを、気にした方が良いのではないでしょうか。

いやもしかすると、悪いことも、恥ずかしいことも、みんながやっていれば平気だという感覚になっているのかも。かつて、「赤信号 みんなで渡れば怖くない」という名言がありましたが、「みんなが恥ずかしい背中を晒しているのなら、私も平気だ」という空気になっているのかもしれません。そんな背中を、誰が「追いかけたい」「学びたい」と思うのでしょうか。 

親鸞聖人は、世間体や周りの目を気にする方ではありませんでした。聖人が意識されたのは、ただ阿弥陀様のまなざしではなかったか。私は、そう思っています。

人に見られていると思うと、どうも落ち着きませんよね。どこで、どんな陰口を言われているか不安になり、みんなの行動やその場の空気を、いつも気にしていかなくてはならなくなる。時には、そのストレスで「背中を丸めた」生き方になってしまうことも…。

しかし、阿弥陀様はどんなに愚かな私でも、決して「背を向け」ず、どこまでも私に寄り添ってくださる仏様なのです。だから、安心して「背中を預ける」ことができる。同時に私が、より良い生き方へと踏み出すよう励まし、「背中を押」してくださる存在でもあるのです。親鸞聖人は、阿弥陀様に支えられ、確かな人生を歩まれました。その生き方に、その背中に導かれ、また歩み始めた人がいた。そんな歩みの歴史が、私たちのところにまで至り届いているのです。

 

私たちには、自分の背中は見えません。つまり、自分の生き方がどんなものなのか、実は自分では分からないということです。見えているのは、人の背中だけ。ならば、どんな人の「背中を追いかけて」いるのか。誰のまなざしを意識するのか。その態度こそが、自分の生き方を、背中を明らかにするのではないかと思うのです。

私は、誰の背中を追いかけているのでしょう。どんな生き方をしているのでしょうか。常に、常に問い直していかねばなりません。■