2023(令和5)年8月



私が『極楽寺だより』で文章を書き始めたのが、二〇〇四年の八月号から。つまり今号で、何と!二十年目に入ることになります。読んでくださった方々の声が励みになり、ここまで続けることができました(何も反応がなかったら、切なくて続けられなかったと思います)。また書くことで、自分の考えをまとめることもできました。日々の生活で、「そういえば、あんなことを書いたよなぁ」と思い出し、自省し、行動を改めたりと、書いた文章に自身が育てられたこともありました。とても大切な歩みになったと思います。ただ、もっと短くてわかりやすく、何より心に響く文章が書ければ良いのですが…。反省は多々ありますが、より良い文章になるよう心掛け、これからも続けていくつもりです。励ましだけではなく、ご意見もお寄せください。

さて、私は文章を掲載するにあたり、必ず踏む手順があります。それは、後輩と坊守に読んでもらうこと。私には、発表前の文章を読んで、意見をくれる後輩がいるのです。上手く褒めて、気分を乗せてくれる時もあれば、耳の痛いことを言われることも。でもこの過程が、私にはとても大切な時間なのです。実は私、彼をスゴ腕批判人≠ニ呼んでいます(必殺仕事人みたいに)。




 




「この表現は、読みにくいですよ」「ここは、物足りないですね」といった厳しい指摘。彼は仏教学の専門家ですから「この言葉は、そんな意味で使ってはいけません」といった容赦のないダメ出し。しかし、彼の批判があるからこそ、改善点が明らかになるのです。私にとって、とても大切な存在です。

ところで皆さんは、批判されるのは好きですか?「好き」と答える人は、少ないのでは。できれば、褒められる方が良いですよね。私も同じです。特に近頃は、批判=悪口のように受け止められていますからね。でも、後輩からの批判に応じて、何度も書き直し、見直す度に、明らかに文章が磨かれていくのがわかるのです。仏教語の説明についても、専門家のお墨付きがあった方が安心できますし、「これで良いんじゃないですか」と言ってもらえると自信になります。良き批判をしてくれる人がいるからこそ、より良いものができる。そう痛感しています。

ただ彼も僧侶ですので、二人だけで考えていると、ついつい専門的で、難解な表現になることも。だからこそ坊守に見てもらい、素朴な意見を聞くことも欠かせません。やはり、様々な角度からの視点は大切です(それでも、難しい文章になる時もありますが、それは私の実力不足。真摯に受け止めるしかありません)。

文章って、残りますからね。後々「こんな酷い文章を、世に出していたのか」と悔やむより、ダメ出しや批判をされても、納得できるものにしたい。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉がありますが、自尊心を優先して一時のことを恥ずかしがるよりも、一生の恥にならぬよう批判に耳を傾けた方が、ゼッタイに良いと思います(そういえばこの言葉、最近聞かなくなりましたね)。もちろん、力のなさを感じる箇所は多々ありますが、「あの時点での精一杯」と思えるなら、まだ受け止めることができます。

とはいえ、ダメ出しされるより、嘘でも褒めてもらった方が嬉しい。自分の思いが、すんなりと通った方が楽。それが正直なところです。でも、批判を通して磨かれた先に、自分が思っていた以上のものが出来上がっていく。その驚きにはかないません。








ちなみに皆さんは、「批判」と「否定」の違いを、ご存知ですか?同じようで、実はまったく違うのです。ある方が、「批判は創造的、否定は破壊的」と言われていましたが、私にとってはこの表現が一番腑に落ちました。

「批判」を辞書で調べると、「批評し判断すること」とあります。物事を鵜呑みにせずに、検討する。客観的に見て、良い点も悪い点も同じように指摘し、論じ判断する。それが「批判」です。そこには、人を責めるという意味はありません。

より良いものを創るためには、違う角度からの意見は不可欠なのです。より良い町や国を創ろうとする時も同様です。「あぁ、こんな考え方もあったのか」「こんな立場の人もいたのか」と、視野が開かれていく。相手の存在が認められ、想像力や共感力が育てられる。「反対」も、違う立場からの意見ですから、大切なもの。いろんな視点からの意見は葛藤を生みますが、それがあるからこそ浅く薄っぺらなものにならないし、より洗練されていく。それが「批判は創造的」ということです。

一方「否定」とは、「違う≠ニ打ち消すこと。認めないこと」です。それがもし、冷静で客観的な態度でなかったら、一方的な価値観で相手を決めつけ、切り捨てる行為でしかありません。それはまさに、相手の存在を「破壊」する行為です(それが、国政の場で行われることを、「全体主義」や「専制政治」と言います)。

近頃は、「批判」も「否定」も、そして「反対」も、すべて悪口のように扱われています。確かに、線引きが難しいですからね。批判を否定として受け止めたり、自分は批判しているつもりが否定的な押しつけになっていたり、反対のための反対になってしまったり…。する側も受け止める側も、それがより良いものを創る営みにつながるかどうかを、吟味する必要があるようです。もしそれが、生きる力を奪うような破壊的言葉なら、さっさと逃げ出した方がいい。インターネットやSNSには、そんな言葉が飛び交っています







 

中国の高僧・曇鸞大師は、仏様の「真実の功徳(利益・恵み)には、不実の功徳≠ニ真実の功徳≠ニいう二つの相(姿)がある」(『往生論註』)と言われています。真実を知らされることが功徳というだけではなく、不実を知らされることも、また功徳なのだと。とても面白い表現だと思いませんか。

例えば、あなたにとても大好きな友人がいるとします。あなたは友人を親しく思っていますから、遠慮なくズケズケとものを言い、時にはからかうこともある。ところが、第三者から「アイツはこんな事情を抱えているから、キミのあの一言には、とても傷ついているんだよ」と指摘されました。あなたなら、どう受け止めますか。

「自分の発言が、知らずに友人を傷つけていた。教えられなかったら、大切な友人を失っていたかもしれない」と、自らの不実な有り方に目覚め、有り難い指摘として受け止めた時、友人との関係は新しいものとして創り直されていきます。これを不実の功徳≠得ると言うのでしょう。

しかし、「自分の言動を否定された。恥をかかされた」と受け止めるなら、それは友人の思いを認めることもなく、自分の価値観だけで切り捨てているだけ。「否定」的な行為をしているのは、あなた自身になってしまいます。

反対の意見も、耳の痛い指摘も、自分にとって悪いものとは限らないのです。それどころか、私が見失っている大切なことを知らせてくださる教え≠ネのかもしれません。「良薬口に苦し」とも言うではないですか(この言葉も、最近聞きませんね)。

私に届けられている教えにうなずき、新たな人生が開かれ、創造されていく。様々な視点の間を葛藤しながら、揺らぎながら、そして深まっていく。仏法を聞くことも、このような態度だと知らされるのです。

 

余談ですが、今回もスゴ腕批判人≠フ容赦なき指摘に磨かれた、「現時点での精一杯」の文章であることを、お伝えしておきます(またもや長くなったことは、大きな反省点ですが)。モチロンもっともっと、より良いものができるよう、これからも歩み続けていくつもりだということも、加えて申し添えます。■