中国の高僧・曇鸞大師は、仏様の「真実の功徳(利益・恵み)には、不実の功徳≠ニ真実の功徳≠ニいう二つの相(姿)がある」(『往生論註』)と言われています。真実を知らされることが功徳というだけではなく、不実を知らされることも、また功徳なのだと。とても面白い表現だと思いませんか。
例えば、あなたにとても大好きな友人がいるとします。あなたは友人を親しく思っていますから、遠慮なくズケズケとものを言い、時にはからかうこともある。ところが、第三者から「アイツはこんな事情を抱えているから、キミのあの一言には、とても傷ついているんだよ」と指摘されました。あなたなら、どう受け止めますか。
「自分の発言が、知らずに友人を傷つけていた。教えられなかったら、大切な友人を失っていたかもしれない」と、自らの不実な有り方に目覚め、有り難い指摘として受け止めた時、友人との関係は新しいものとして創り直されていきます。これを不実の功徳≠得ると言うのでしょう。
しかし、「自分の言動を否定された。恥をかかされた」と受け止めるなら、それは友人の思いを認めることもなく、自分の価値観だけで切り捨てているだけ。「否定」的な行為をしているのは、あなた自身になってしまいます。
反対の意見も、耳の痛い指摘も、自分にとって悪いものとは限らないのです。それどころか、私が見失っている大切なことを知らせてくださる教え≠ネのかもしれません。「良薬口に苦し」とも言うではないですか(この言葉も、最近聞きませんね)。
私に届けられている教えにうなずき、新たな人生が開かれ、創造されていく。様々な視点の間を葛藤しながら、揺らぎながら、そして深まっていく。仏法を聞くことも、このような態度だと知らされるのです。
余談ですが、今回もスゴ腕批判人≠フ容赦なき指摘に磨かれた、「現時点での精一杯」の文章であることを、お伝えしておきます(またもや長くなったことは、大きな反省点ですが)。モチロンもっともっと、より良いものができるよう、これからも歩み続けていくつもりだということも、加えて申し添えます。■
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