2023(令和5)年9月



今月の言葉は、浅原才市さんの言葉です。才市さんは明治大正期を生きた人で、妙好人と讃えられた方々の一人です。妙好人とは、「言葉では言い尽くせないほどうるわしい人」という意味で、篤信の念仏者への讃辞をあらわします。特に才市さんは、世界的な仏教学者鈴木大拙博士が『日本的霊性』『妙好人』という書物を通して紹介したことで、一般に、そして海外の人にも高く評価されるようになりました。

才市さんには、肖像画についての有名な逸話があります。ある時同じ町の画家が、才市さんの肖像画を描いてくれました。それを見て「この絵は私に似ていない」と才市さんは言い出します。それを聞いた画家さんはムッとして「どこが似てないのか」とたずねました。すると才市さんは「いい顔すぎる」と言うのです。私はこんなに良い人間ではない。鬼のような心を持って、人を憎んだり、嫉んだり、恨んだりする私が、少しも描かれていないと。「では、どうすればあなたに似るのか」と聞くと、「頭に角を描いてくれ」と。そこで二本の角をはやした絵に描き替えたというお話です。(参考『妙好人のことば』梯實圓)

自分の写真に加工し、盛って、より良く見せようとする今の時代とは、真逆な話ですよね。「自虐的だ」とか「偽善的」などと言われかねない時代です。

しかし、才市さんの言葉には、卑屈な感じがしないのです。自然体で、地に足が着いた確かささえ感じられます。なぜでしょう。それは、深い宗教性に支えられた、内省の言葉だからです。才市さんには、このような詩があります。


「慚愧のご縁に逢ふときは 時も機もあさましばかり 
   これがくわんぎ(歓喜)のもととなる
  なむあみだぶ(南無阿弥陀仏)のなせるなり」


「慚愧」とは、自らを恥じるということ。そんな我が身を「あさまし」と恥じるご縁が、喜び(歓喜)のもとであると。おかしな話ですよね。何より恥じることと喜ぶことは、本来矛盾しています。しかしこれが、南無阿弥陀仏に依れば成立するのだと、才市さんは言うのです。

お念仏を通して、阿弥陀如来のはたらきに出遇う。そのはたらきは、迷いを迷いとも気づかず、迷いを深める私のためのものだと知らされる。そこに我が身の浅ましさが照らし出され、慚愧が生まれてくる。同時に、私はそこまで深く願われている、かけがえのない存在だと知らされ、歓喜の念仏が生まれてくる。その歓喜はまた、慚愧すべき身であることを忘れてはならぬと照らし出し、その慚愧はまた、深く願われているという歓喜を生み出していく。それらはすべて、阿弥陀様のはたらきによるものであるのだと。

阿弥陀如来に受け止められる実感があるからこそ、才市さんは安心して自分の愚かさに向き合えたのでしょう。私が拝むより先に、私は拝まれていた。阿弥陀様の救いの中にあるからこそ、目を背けることも、誤魔化すこともしなくていい。ありのままの自分と、素直に向き合える。

この感覚は、「弱さを認めるのは負けだ」「愚かさを認めるのは恥だ」と感じている人には、なかなか実感できないのかもしれません。特に最近の社会は、その傾向が強くなっていますから、安心して自分の愚かさと向き合えることがどれほど豊かな人生を開くのかということは、伝わりにくいと思います。




 
肖像画をもとにした、才市さんの像
大田市温泉津町温泉津温泉街




先日、父の遺した資料を整理していた時のこと。祖父と父が発行していた、極楽寺の寺報が出てきました。昭和三十六年から十一年間、合計三十一回発行されたもの。パソコンもコピー機もない時代、ガリ板印刷で手刷りです。多い時には、四十ページ近くもある号もあり、よくもまぁこれほどのものをと感心する、クオリティーの高い冊子でした。そこには、毎号『住職日記抄』と題したコーナーがありました。今でいえば、ブログのようなものでしょうか。当時住職を勤めていた祖父の動向や日常の中の思いが綴られていました。

私の祖父・大融が往生したのは、私が中学生の時。祖父にとって初孫だった私は、とても可愛がられたのだそうです。でも、正直なところ私には「厳しいじいちゃん」というイメージしかありません。周りから言われることと、自分の印象のギャップに違和感を持っていたのですが、この冊子のおかげで、その秘密が明らかになりました。

私が生まれた頃に発行された第十六号には、初孫が生まれたことの喜びが、読んでいる私が恥ずかしくなるほど、嬉しさたっぷりに書かれています。その後も、「秀見がいないと、寂しい」などの言葉も見られます。まさに溺愛といったところでしょうか。確かに、可愛がられていたことがよくわかります。

ところが、昭和四十五年一月発行の第二十八号に書かれた『年頭随想』には、こう書かれていたのです。「わが愛する孫がもう四才である。今では保育所に通っている親たちにとっては、幼児教育の大切な時期である。いろいろな躾も必要である。私はこの孫が生まれて今日まで眼に入れても痛くない思いで可愛がってきたが、それはあまりにも年寄りの盲愛に過ぎたようである。この盲愛の影響がそろそろ孫の性格の上にも現れて来たようである。おそろしいことだと思っている。今年からは孫に対する愛情の表現も、大いに自省を要するのではないかと思う」と…。

この文章を読んだ坊守と娘は、大爆笑していました。私って、一体どんな子どもだったのでしょうね。孫のことを「眼に入れても痛くない」とまで愛する祖父にここまで言わせるほど、みんなの手を焼かせていたのかと思うと、ただただ赤面するばかりです(まあ、心当たりがないわけではありませんが…)。つまり、私のイメージする「厳しいじいちゃん」は、私がそうさせていたということなのです。祖父が溺愛したい思いを抑え、あえて厳しい態度をとったのは、すべて私の成長を思うが故の行為。そんな心もはたらきも、この文章を読まなければわからないままでした。私は恥ずかしさと同時に、とても温かいものに包まれていることを感じました。

私に向けられた願いとはたらきに気づかされた時、我が身の浅ましさが照らし出される。しかしそれは、私のためを思ってのことだと知らされる時、温もりと喜びが生まれてくる。そしてまた、その心に気づかなかった愚かさに頭が下がっていく。才市さんのいただかれる慚愧と歓喜は、このような関係で生まれてくるのではないかと考えさせられました。そしてそれらはすべて、私が思うよりも先に、私を思ってくださる心によるものであったことも。








祖父の文章を読んで、改めて私自身の子育てを振り返ってみました。私も「ああすれば良かった」「こんなこと、しなければ良かった」と反省ばかり。ただ、子どもたちに対して、「オレの子育ては失敗だった」とは、言えないなぁとも思っています。なぜなら、子どもたちが「私は、失敗作なんだ」と受け止めてしまいかねないからです。それでは、こちらの思いが伝わりません。ならばせめて、「私の子育ては失敗ばかりにもかかわらず、よくぞここまで成長してくれた」と感謝の言葉を添えたいものだと思っています。■