今月の言葉は、浅原才市さんの言葉です。才市さんは明治大正期を生きた人で、妙好人と讃えられた方々の一人です。妙好人とは、「言葉では言い尽くせないほどうるわしい人」という意味で、篤信の念仏者への讃辞をあらわします。特に才市さんは、世界的な仏教学者鈴木大拙博士が『日本的霊性』『妙好人』という書物を通して紹介したことで、一般に、そして海外の人にも高く評価されるようになりました。
才市さんには、肖像画についての有名な逸話があります。ある時同じ町の画家が、才市さんの肖像画を描いてくれました。それを見て「この絵は私に似ていない」と才市さんは言い出します。それを聞いた画家さんはムッとして「どこが似てないのか」とたずねました。すると才市さんは「いい顔すぎる」と言うのです。私はこんなに良い人間ではない。鬼のような心を持って、人を憎んだり、嫉んだり、恨んだりする私が、少しも描かれていないと。「では、どうすればあなたに似るのか」と聞くと、「頭に角を描いてくれ」と。そこで二本の角をはやした絵に描き替えたというお話です。(参考『妙好人のことば』梯實圓)
自分の写真に加工し、盛って、より良く見せようとする今の時代とは、真逆な話ですよね。「自虐的だ」とか「偽善的」などと言われかねない時代です。
しかし、才市さんの言葉には、卑屈な感じがしないのです。自然体で、地に足が着いた確かささえ感じられます。なぜでしょう。それは、深い宗教性に支えられた、内省の言葉だからです。才市さんには、このような詩があります。
「慚愧のご縁に逢ふときは 時も機もあさましばかり
これがくわんぎ(歓喜)のもととなる
なむあみだぶ(南無阿弥陀仏)のなせるなり」
「慚愧」とは、自らを恥じるということ。そんな我が身を「あさまし」と恥じるご縁が、喜び(歓喜)のもとであると。おかしな話ですよね。何より恥じることと喜ぶことは、本来矛盾しています。しかしこれが、南無阿弥陀仏に依れば成立するのだと、才市さんは言うのです。
お念仏を通して、阿弥陀如来のはたらきに出遇う。そのはたらきは、迷いを迷いとも気づかず、迷いを深める私のためのものだと知らされる。そこに我が身の浅ましさが照らし出され、慚愧が生まれてくる。同時に、私はそこまで深く願われている、かけがえのない存在だと知らされ、歓喜の念仏が生まれてくる。その歓喜はまた、慚愧すべき身であることを忘れてはならぬと照らし出し、その慚愧はまた、深く願われているという歓喜を生み出していく。それらはすべて、阿弥陀様のはたらきによるものであるのだと。
阿弥陀如来に受け止められる実感があるからこそ、才市さんは安心して自分の愚かさに向き合えたのでしょう。私が拝むより先に、私は拝まれていた。阿弥陀様の救いの中にあるからこそ、目を背けることも、誤魔化すこともしなくていい。ありのままの自分と、素直に向き合える。
この感覚は、「弱さを認めるのは負けだ」「愚かさを認めるのは恥だ」と感じている人には、なかなか実感できないのかもしれません。特に最近の社会は、その傾向が強くなっていますから、安心して自分の愚かさと向き合えることがどれほど豊かな人生を開くのかということは、伝わりにくいと思います。
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