2024(令和6)年1月



ささやかではありますが、今、私は生きています。

この事実は、父と母の存在があるからこそ成り立ちます。その父と母にも、また父と母(私にとっては祖父と祖母)がいるわけで、祖父と祖母にもそれぞれ父と母がいます。遡るほどにその人数は増えていき、五代前まで遡ると、その合計は六十二人。十代前まで遡ると、二千四十六人。二十代前まで遡ると、二百九万七千百五十人。三十代前まで遡ると、何と二十一億四千七百四十八万三千六百四十六人にもなるのです。

 この人数は、あくまでも直系の先祖の数。それぞれの人生は、友人や恩人、恩師などお世話になった人がいて成り立つわけで、その人たちも含めると、一体どれだけの人がいて今の私があるのでしょう。その内の一人が欠けても、結果は変わります。ならば、今私が生きているということは、実はかなり凄いことではないでしょうか。




 




仏典には「人間として生をうけることが、いかに難しいことか」が、様々な譬えで語られています。

大海の中に落ちている一本の針を探しだすほどに難しい(大海の一針)とか、大海の底に住む目の見えない亀が、百年に一度海上に浮かび上る時、たまたま漂ってきた流木の穴から頭を出すような確率(盲亀浮木の譬え)などとも言われます。

そして、人間に生まれることがこれほど難しいことなのに、それ以上難しいのは仏法に出遇うことなのだとも語られるのです。

例えば、こんなお話があります。ある時、お釈迦様がお弟子さんと歩かれている途中、ふと立ち止まり、足元の土を一握り手のひらにのせ、こう言われました。「この世界には、この足元の全ての土と同じくらい数えきれないほどの生命がある。しかし、その中で人間はこの手のひらにある土くらいしかいない。それほどに、人間として生まれることは難しいことなのだ」と。そして、手のひらの土から一つまみの土を、一本の指の爪の上にのせて、こう言われたのです。「同じ人間に生まれることができても仏法に巡り会うことが出来る人は、この爪の上の僅かな土ほどに、極めて稀なことなのだ」と(爪上の土の喩え)。

実は私、これらの「人間に生まれ、仏法に出遇うことは、これほど稀なことなのだから、喜ばなくてはならない」的な話が、苦手でした。なぜなら、何か押しつけがましい感じがするから。そして何より、エリート意識や優越感を煽る話のように感じていたからです。「私たちは、選ばれた存在なのだ。そのことを自覚しなさい」「仏教徒以外の人は、かわいそうな人たちなのだ」と言われているようで、何か、鼻持ちならない感じがしていたのです。

しかし今考えると、それは一面的な受け止めだったと思います。これらの話は、優越感を煽るものではありません。あくまでも、仏法に出遇ったことで知らされた、よろこびと感動の表現だと気づかされたのです。

親鸞聖人は、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ(思いがけずこの真実の行と信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ)」(『教行信証総序』)と記されています。今私は、仏法と出遇えたよろこびと感動の中にいる。その出遇いは「たまたま」としか言えないほど、思いもかけないことだった。幾たび生を重ねても遇えるはずもない私が今、仏法に出遇うことができたのは、まさに爪の上の僅かな土ほどに極めて稀なこと。それは遡って考えると、長い歴史の中で織り成された様々な因と縁によるものであった。そういただかれた言葉だと、私は受け取っています。

つまり親鸞聖人は、仏法に出遇った今をよろこばれただけではなく、遠い過去までが自分に関わるリアルなものとして輝いて見えてきたのです。そして、ささやかなものだと思っていた自分の人生を、とんでもなく大きなスケールのものとして、いただき直されたのです。そんな世界を開いていく仏法って、凄くないですか。









社会学者の大澤真幸先生は、欧米の人たちに比べて日本人は、次の世代のことに対して無関心であり、鈍感であると指摘されています。特に環境問題、人口問題、核戦争の問題などは、今生きている私たちより<未来の他者>の運命を左右する問題であるはずなのに、その<未来の他者>の思いに応えたいという意欲に乏しいと。

それは、なぜなのか。大澤先生は、「未来との関係にあるのではなく、それ以前にまずは過去との関係にある」のだと指摘されます。つまり、「その人たちのおかげで我々の現在がある」「その人たちの願いを引き受けずにはいられない」と思うような過去の人たち、<我々の死者>と出会っていないからだと。(司馬遼太郎生誕100年 大澤真幸さんが語る「我々の死者」の喪失 毎日新聞 2023/8/1 

確かに現代社会に生きる私たちは、目先のことばかりを追いかけ、自分の人生をちっぽけなものにしているように思えます。どれほどの歴史の中で、どんな恵みをいただいて、今の私があるか。そんなことなど、ほとんど語らなくなりました。人生を過去の歴史と切り離し、今だけしか見ないのならば、次の世代に無関心にもなるはずでしょう。

 







 

今私が生きている。その事実を遡れば、数えきれないほどの人たちの歴史があり、様々な因と縁があるのだと仏法は教えてくださるのです。ちっぽけな国という枠組みさえ超えて、広大無辺なる連なりの中に、自分の人生がいただけるのです。

私たちの先輩方は、「仏法に出遇う時、人間に生まれたことが稀なことだと思えるような、大きな世界が知らされる。自分の人生を成り立たせてくださる世界との出遇いが、開かれていく。あなたも、このよろこびと感動にぜひとも目覚めて欲しい」と、<未来の他者>である私たちに語りかけてくださいました。ならば、私も<我々の死者>と出遇い、<未来の他者>を想う歴史の連なりに、参画しなければと思うのです。その営みこそが、スケールの大きな世界の中に、自分の人生を確かなものとして見い出す歩みにもなるのだと、教えられるのです。■