2024(令和6)年10月

過ぎたる時代に

 「過ぎたるは、猶及ばざるが如し」とは、古代中国の思想家・孔子の『論語』に由来した言葉です。ある時、二人の門人のどちらが優れているかをたずねられた孔子は、「彼は行き過ぎていて、彼は及ばず足りない」と答えました。「それならば、行き過ぎている方が優れているのか」と再度たずねられると、「行き過ぎるのは、足らないことと同じだ」と答えたのです。「中庸」の大切さを述べたことで有名な言葉です。
 ちなみに「中庸」とは、偏ることを誡めてはいますが、単にバランスが大事だということではないようで。その場、その時に、最も適切妥当な判断をすることをいうのだそうです。ならば「中庸」とは、生易しいことではありません。どんな状況においても常に適切にふるまうのは、かなり難しいこと。だから、常に中庸を得ることができるのは、聖人だとも言われているのだそうです。
但し、中庸の「庸」とは、普通のこと、当たり前のことという意味もありますから、実は平凡なことにこそ中庸はある。だから、どんな人でも中庸を得ることができるのだと、考えられてもいるようです。(『中庸』宇野哲人訳注/講談社学術文庫 序文より)それは、勇ましく華やかなパフォーマンスよりも、地に足のついた確かな生き方の中にこそ、適切な判断は生まれることを示しているのかもしれません。
 ところで、この言葉を踏まえて徳川家康が「及ばざるは、過ぎたるより勝れり」(『東照公御遺訓』)と言っていることをご存じでしょうか。やり過ぎを戒め、謙虚であることを薦めるために、「足りない方が、行き過ぎるよりも良い」というのです。
私たちが生きる現代社会は、大量生産、大量消費、そして過剰なスピード化、効率化、利便性が求められています。人間や自然の営みを遥かに超えたその欲求は、様々な歪みも生み出しました。「このままでは地球がもたない」と、ようやく「持続可能な社会の実現」や「SDGs」といったことが叫ばれ始めましたが、過剰な欲求はなかなか収まりそうにもありません。そんな、「過ぎたる」時代において、地に足をつけ、謙虚に自分の生き方を見つめ直すためにも、今耳を傾けるべきは徳川家康の言葉なのではないかと思うのです。



        


「俺は満足しない」

 以前、ある有名な日本企業の年間利益が、五兆円にのぼったことが話題になりました。五兆円と言ってもピンと来ない方もあるかもしれませんね。数字に直すと5,000,000,000,000円。何と0が12個!とんでもない数字です。その大企業の会長は創業直後、二人しかいなかった社員に「いつか必ず売り上げも利益も一兆、二兆と、豆腐屋のように数えられるようにしてみせる」と宣言したそうですから、まさに夢が叶ったというところでしょうか。
 ところが、その会長はこう言われたそうです。「私は五兆円や六兆円で満足する男ではない。十兆円でも全然満足はしない」と。私はその発言を聞いて、「この人は、一体いくら儲けたいのだろうか」とゾッとしました。だって数字は、その後ろに0をつければ、永遠に増えていくのです。ですから、数字を増やすことの先に、満足があるとはとても思えません。数字に執着し、「もっと」「もっと」と欲望が過剰に煽られていく。気がつけば世界中がマネーゲームに振り回され、貧富の差が広がり、上位1%の富裕層が世界の個人資産の四割近くを保有するような状況になりました。
 私なんかが見ても明らかに行き過ぎだと思うのですが、その渦中にあると、どんなに優秀な人であっても異常さに気づけないのですね。歴史をふり返えれば、優秀な人が過剰さと異常さに気づけずに暴走し、悲劇を生んだという事例はいくらでもありますし。まさにブレーキの壊れた自動車に乗って、さらにアクセルを踏み続けているようなもの。これでは、「及ばざるは、過ぎたるより勝れり」どころではありません。「過ぎたるは、及ばざるよりなお悪し」と言わざるを得ないのが、現状のようです。







 

善友を求めよ

 では、どうすれば冷静に自分をふり返り、地に足をつける生き方ができるのでしょうか。
 以前、「高名で立派な教育学者でも、自分の子どもには冷静になれない」という話を聞いたことがあります。どんなに深い見識を持った人でも、自分の子どものことになると、つい感情が先走ってしまうからだそうです。子育て真っ只中で、自分の子どもに冷静になれないことを苦悩している時期でしたから、「立派な先生でもそうなのか」と、ホッとしたことを覚えています。
 第三者の立場なら冷静に見えることも、当事者になるとわからなくなるのが、私たち。ならば、それを前提に考えなくてはならないのでしょう。つまりは、行き過ぎを指摘してくれる第三者の声を、常に聞かねばならないということです。
ただ近頃は、インターネットやSNSの普及によって、対立を煽り、過剰さと異常さを加速させる言葉が飛び交う時代です。「誰の声を聞くのか」という課題は、私たちの人生の歩みにとって、ますます重要なものになっていると言えるでしょう。

 お釈迦さまは「善友」を求めなさいと説かれています。善友とは、自分にとって良い影響を与えてくれる人のこと。弟子のアーナンダが「善友と共にいることは、仏道の半分を成就したに等しいと思うのですが?」と尋ねると、お釈迦様は「それは違う。それが仏道のすべてである」と答えているほど、自分を導いてくれる友、第三者は、大きな存在だと言われるのです。
 「そんな良き友人がいれば良いなぁ」と誰もが思うのでしょうが、「そんな出会いは、なかなかないよ」と言われる方も多いのでは。ただ、そんな人がいたとしても、こちら側が気づけずにすれ違う場合もありますよね。「忠言は耳に逆らう」「良薬口に苦し」ということわざもありますから、私が避けているのかもしれません。

 『大無量寿経』という経典に、
    「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、
            すなはちわが善き親友なり」
とあります。教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じ喜ぶ者こそが、私のまことの善き友だと、お釈迦さまは言われているのです。
 これは、「法を聞いて喜ぶことを条件に、私は親友になろう」と言われているわけではないのでしょう。お釈迦さまや阿弥陀さまは、そして多くの仏さまは、常に私に寄り添ってくださっている。そのことに気づき目覚めることを、「法を聞く」「見て敬う」「得て慶ぶ」というのだと、私は味わっています。しかもそれは、たとえ自分に都合の悪いことであっても、大切なことであればうなずいていく姿勢でもあります。『阿弥陀経』に、「今現在説法(いま現にましまして法を説きたまふ)」とあるように、私のために、今大切な法が説かれていると受け止める態度です。

 つまり、善友はすでに私のそばにあり、私は常に呼びかけられているのです。その呼び声に目覚める時、「過ぎたるは、及ばざるよりなお悪し」である自分の状況を冷静にふり返り、地に足をつけた生き方が始まるのだと教えられるのです。
 お念仏を称えながら、阿弥陀さまと相談しながら、人生を歩まれた先輩方の後ろ姿を思い起しています。今の時代に、最も必要な態度ではないかと考えながら。■