今月の言葉には、違和感を覚える方もおられるのではないでしょうか。普通は、「尊敬すべき師がいてこそ、弟子がある」と考えます。ところが、まずは「弟子の準備」が先だと。これでは順番が違いますよね。でも、私たちの普通こそが、実は間違いなのではないか。この言葉から、そう問われるように感じるのです。
例えば、近頃の学校の先生は、あまり尊敬されなくなってしまいました。卒業式で「仰げば尊し わが師の恩〜」と歌われることもありません。昔は、一応の建前として「先生は敬うものだ」という共通認識がありました。ところが今や、そんな考えは崩れつつあります。
こうなった理由は色々とあるのでしょうが、大きなものの一つとして、社会が「消費者」化への傾向を強めているのではないか。つまり教育サービスを買うという、お客さん意識が社会全体で強まったからではないかと思うのです。
「私には、このサービスを受ける権利がある。あなたには、プロとして私にサービスする義務がある」、そんな消費者と提供者の関係になった。だから先生は値踏みされ、「尊敬に値しない人は、尊敬する必要がない」と考えるようになってしまったのでは。
「いや、それのどこが悪い!」と言いたい方もあるでしょう。それほど、この感覚は当たり前のように私たちに染みついています。ところがこれこそが、学びを妨げる大きな要因になっているのではないかと、考えさせられるのです。
なぜなら、消費者の立場をとる際に値踏みの基準となるのは、その時点での自分の価値判断です。欲しいもの、ニーズに合うものだけを良いサービスとして評価する。洋服やアクセサリーを買うように、知識や情報を身につける。ならば装飾品は増えても、「自分」そのものは変わりません。
本来「学び」とは、自分が成長し変化していくものであるはずです。これまで握りしめていた考えを、古い衣服を脱ぎ捨てるように惜しげもなく捨てていくこと。「なんと小さなものの見方に、縛られていたのだろうか」と、これまでの価値観が揺さぶられ、世界の大きさに出会うこと。ものの見方が変わり、深く豊かに味わえるように成熟していく。これが学びという営みでしょう。
そもそも、未熟な者は「何をもって成熟というのか」を、理解できません。なぜなら、未熟だから。自分の成長は、かつての自身を思い浮かべ「なんて未熟だったのか」「一面的な考えしか、できていなかった」と赤面の思いと共に振り返る時に、初めて感じられるもの(これ、私の経験そのものです。振り返れば、お恥ずかしいことばかり。しかし、そのことに気づけることが、成長の証でもあるのでしょう)。このような事後的な形でしか、自覚できないのです。
だから成熟とは、それまでのニーズとは違う形であらわれます。自分が思いもしなかった自分になっていく。今までの自分の思いを超えた世界と出遇うということなのです。この「私には知らない世界があって、今の自分には見えないものがある。成熟することで、どんな世界が見えてくるのだろうか」とワクワクする感覚は、子どもの頃から消費者意識が染みついてしまうと、理解しづらいのではないかと思います。
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