2024(令和6)年4月


 

今月の言葉には、違和感を覚える方もおられるのではないでしょうか。普通は、「尊敬すべき師がいてこそ、弟子がある」と考えます。ところが、まずは「弟子の準備」が先だと。これでは順番が違いますよね。でも、私たちの普通こそが、実は間違いなのではないか。この言葉から、そう問われるように感じるのです。

例えば、近頃の学校の先生は、あまり尊敬されなくなってしまいました。卒業式で「仰げば尊し わが師の恩〜」と歌われることもありません。昔は、一応の建前として「先生は敬うものだ」という共通認識がありました。ところが今や、そんな考えは崩れつつあります。

こうなった理由は色々とあるのでしょうが、大きなものの一つとして、社会が「消費者」化への傾向を強めているのではないか。つまり教育サービスを買うという、お客さん意識が社会全体で強まったからではないかと思うのです。

「私には、このサービスを受ける権利がある。あなたには、プロとして私にサービスする義務がある」、そんな消費者と提供者の関係になった。だから先生は値踏みされ、「尊敬に値しない人は、尊敬する必要がない」と考えるようになってしまったのでは。

「いや、それのどこが悪い!」と言いたい方もあるでしょう。それほど、この感覚は当たり前のように私たちに染みついています。ところがこれこそが、学びを妨げる大きな要因になっているのではないかと、考えさせられるのです。

なぜなら、消費者の立場をとる際に値踏みの基準となるのは、その時点での自分の価値判断です。欲しいもの、ニーズに合うものだけを良いサービスとして評価する。洋服やアクセサリーを買うように、知識や情報を身につける。ならば装飾品は増えても、「自分」そのものは変わりません。

本来「学び」とは、自分が成長し変化していくものであるはずです。これまで握りしめていた考えを、古い衣服を脱ぎ捨てるように惜しげもなく捨てていくこと。「なんと小さなものの見方に、縛られていたのだろうか」と、これまでの価値観が揺さぶられ、世界の大きさに出会うこと。ものの見方が変わり、深く豊かに味わえるように成熟していく。これが学びという営みでしょう。

そもそも、未熟な者は「何をもって成熟というのか」を、理解できません。なぜなら、未熟だから。自分の成長は、かつての自身を思い浮かべ「なんて未熟だったのか」「一面的な考えしか、できていなかった」と赤面の思いと共に振り返る時に、初めて感じられるもの(これ、私の経験そのものです。振り返れば、お恥ずかしいことばかり。しかし、そのことに気づけることが、成長の証でもあるのでしょう)。このような事後的な形でしか、自覚できないのです。

だから成熟とは、それまでのニーズとは違う形であらわれます。自分が思いもしなかった自分になっていく。今までの自分の思いを超えた世界と出遇うということなのです。この「私には知らない世界があって、今の自分には見えないものがある。成熟することで、どんな世界が見えてくるのだろうか」とワクワクする感覚は、子どもの頃から消費者意識が染みついてしまうと、理解しづらいのではないかと思います。




 




実は、その学びの扉を開くカギが、「敬う」という態度にあるのだと教えられるのです。インドの高僧龍樹菩薩に「雨が降ると水は山の頂に留まらず、必ず低いところに流れ込む。同様に頭を下げ自分を低くして師を敬うならば、仏法の功徳はその人に入り込む。しかし、驕り高ぶり自分を高くするなら、法の水は入らない」という譬えがあります。つまり学びとは、敬う態度から始まるのだと。

ならば、まず整えるべきは「敬う態度を養う」環境ではないでしょうか。頭を下げ、自分を低くする。それは卑屈でも、惨めな態度でもありません。教えを受け止めることができるよう、心をオープンにしておくためのものなのです。

だからこそ、昔は社会全体で「先生は敬うものだ」という世間智が共有されていたのではないか。そう指摘されるのが、「プロ教師の会」の名誉会長で、長く公立高校の先生を勤められた、作家の諏訪哲二さんです。諏訪さんは、「教師への尊敬≠ヘ教師にとってではなく、子どもにとって重要なのだ」ともいわれています。

 

「どんな子ども(生徒)でも教師を「尊敬」する気持ちを持っている方が、教育(学習)の成果は上がるのである。/子どものときから「あの先生はたいしたことない」と思っているより、「あの教師は信用できる」と思っていた方が勉強も人格形成も進む/学ぶということは自分が学ぶ者としてまだ「小さい存在」であるという自覚が必要だからである。もちろん、いい教師、ダメな教師を見分けるのも子どもの成長にとっては必要なことではあろうが、子どものときは他人を値踏みする習慣を身につけないで「信頼」から歩み始めるのがいい」(『尊敬されない教師』諏訪哲二)

 

先生全員が尊敬されるような人格者かどうかは別問題。学びのパフォーマンスを上げるためには、その態度が不可欠なのだと。これは学校教育や子どもたちだけの話ではありません。私たちの生き方そのものにも、そして仏法を聞くことにも通じるのではないでしょうか。

自分が持っている価値基準を、問い直す。自分の小ささを自覚し、敬う態度を身に着ける。これを浄土真宗では、「聞」と言い表してきました。心をオープンにすることで、阿弥陀様の願いとはたらきを聞く準備を整える。そこには、思いもよらない豊かな世界との出遇いが開かれる。そんな歩みの歴史が、南無阿弥陀仏のお念仏にこめられて、私たちに届けられているのです。私を導いてくださる師は、既に私の身近なところにおられ、呼びかけられていたのでした。

まずは「弟子の準備」が整わなければ、師と出会うこともありません。自分を高くしていることに気づかなければ、どんなに尊い言葉でも届くことはないのです。■