人は優しいままに、残酷になれる
オウム真理教のドキュメンタリー「A」「A2」で知られる映画監督で作家の森達也さんは、撮影中あることに気がつきます。それは、撮影時に会ったオウム信者も、事件を起こした死刑囚たちも、みんな礼儀正しく、善良で心優しい人たちだったということです。でも彼らが多くの人の殺害に加担したことも確かなこと。だから森さんは、彼らと語り合いながら混乱します。そして、この矛盾に苦悩し煩悶しながら、ひとつの結論を見出しました。
アウシュビッツ強制収容所の所長を務めていたルドルフ・ヘスは、子煩悩で妻思いの男だった。本国ドイツから家族を呼び寄せて、収容所敷地内で仲睦まじく暮らしていた。空いた時間には子どもたちに勉強を教え、庭では妻と家庭菜園をやっていた。
しかし、そこから徒歩で数分の場所にはガス室があって、多くのユダヤ人が毎日悶えながら死んでいった。良き夫であり良き父であるヘスは、ユダヤ人の側から見れば、これ以上ないほどに邪悪な悪魔でありモンスターだ。(『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか?』森達也)
これは森さんがたどり着いた結論を示す、エピソードの一つです。家庭思いで仕事熱心なルドルフ・ヘスは、その誠実さのゆえにユダヤ人を殺害するのです。そこには「我々」と「彼ら」の明確なラインがありました。ラインに、そして線引きをした組織に忠実な故にヘスは、ユダヤ人を処分されるべき存在として認識するようになったのです。
その時彼は、「私」という一人の人間としてではなく、「我々」というナチスの価値観や立場を優先していました。「私」という主語ではなく、「我々」として考えた。だから組織の論理が優先され、「彼ら」の処分に、ためらいがなくなってしまったのです。心優しきままに。
まさに、優しい「人」が、「人々」になることで残酷になる。それが森さんの結論です。
オウムの信者のほとんどが善良で穏やかで純粋であるように、ナチスドイツもイラクのバース党幹部も北朝鮮の特殊工作員たちも、きっと皆、同じように善良で優しい人たちなのだと僕は確信しているということだ。でもそんな人たちが組織を作ったとき、何かが停止して何かが暴走する。その結果、優しく穏やかなままで彼らは限りなく残虐になれるのだ。でもこれは彼らだけの問題じゃない。共同体に帰属しないことには生きてゆけない人類が、宿命的に内在しているリスクなのだと思っている。つまり僕らにもそのリスクはある(『世界はもっと豊かだし人は優しい』森達也)
こうして全体の一部となりながら、いつのまにか誰もが声高になる。虐殺や戦争はこうして起きる。でも渦中では、主語がないからこそ実感は薄い。誰もが終わってから呆然と天を仰ぐ。振り返ってごらん。世界はそんな歴史を繰り返している(『世界が完全に思考停止する前に』森達也)
それは、不祥事を起こした人をSNSやネットで叩く「炎上」行為も、虐めや差別も同様なのでしょう。その時の主語は、あくまでもその場の空気です。相手を、温もりや手触りのある生身の身体を持った人間として認識していれば、そこまで残酷にはなれません。「私」を主語にして考えれば、言動にはもっと責任が伴います。
「彼ら」と線引きし、「我々」という主語で語るからこそ、冷酷で残酷になれる。そしてひとつのきっかけさえあれば、誰もがその立場に成り得るのです。いやその可能性は、ネットやSNSの普及で、ますます高まっています。親鸞聖人が語られた「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』十三条)という言葉が、リアルに響いてきます。
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