2024(令和6)年6月


 

「我ら」と「彼ら」の線引きが


今年四月から、NHKで池上彰さんの司会による『時をかけるテレビ~今こそ見たい!この1本』という番組が始まりました。放送が始まって間もなく100年。これまでNHKが制作・放送してきた数多くの番組から、「今こそ見たい!」と厳選した名作を見直すことで、現代に通じるメッセージを読み解いていくというものです。

その第二回目で紹介されたのが、1994年にアフリカのルワンダで起きた大量虐殺についてのドキュメンタリー『なぜ隣人を殺したか~ルワンダ虐殺と扇動ラジオ放送』(1998年放送)でした。多数派の【フツ族】が少数派の〖ツチ族〗を襲った、アフリカの歴史上最悪ともいえるこの事件。かなりエグい内容ですが、まさに池上さんを始めとした番組スタッフの、「今こそ、見なくてはならない」という思いが込められているように感じました。






ルワンダの主な民族は、多数派の【フツ族】と少数派の〖ツチ族〗です。元々対立はなく、一緒に暮らしていました。ところが、ルワンダを植民地にしたベルギーなどが、〖ツチ族〗を優遇して支配体制を作ったことから、両者に対立が生まれたのです。

そして1960年頃、それまでの政治体制が打倒され【フツ族】による政権が作られると、両者の立場が逆転します。【フツ族】の過激派が中心となった政府は、これまで恵まれた環境にあった〖ツチ族〗を弾圧。国外に亡命した〖ツチ族〗の人々は反政府組織を作り、軍事対立が起こりました。

そんな緊張関係の中、大統領の乗った飛行機が撃墜されました。【フツ族】から強く支持され人気のあった大統領が、暗殺されたのです。「犯人は、〖ツチ族〗の過激派によるものだ」と声が上がり、対立は激化。最初は〖ツチ族〗反政府組織への怒りの矛先が、いつの間にか〖ツチ族〗全体へと向き、ついには虐殺へとつながったのです。






 

番組では、【フツ族】の青年フランソワを取り上げます。彼は十七歳の時に、同じ村に住んでいた〖ツチ族〗の、十歳に満たない子どもたちを殺害しました。殺された子どもたち、実はフランソワの姉の子どもだったのです。姉は、〖ツチ族〗の男性と結婚していました。

政治的な対立はありましたが、二つの民族間の結婚は、ごく日常的に行われていたのです。親戚関係は当たり前。かつてあったといわれる民族の身体的特徴も、すでに区別できないほど深く結びついていました。しかし【フツ族】による政府は、「子どもは父親の民族に属する」と法律で定め、身分証明書に民族を記すことを徹底しました。とはいえ、それほど深い結びつきがあったにも関わらず、なぜフランソワは甥や姪を殺してしまったのでしょう。

虐殺を煽ったのは、ラジオでした。当時のルワンダにはテレビ放送はなく、地方には新聞も届きません。国営ラジオは堅苦しい放送ばかり。そんな時に作られたのが、新しい民間放送局「千の丘ラジオ」です。流行の音楽にのせてディスクジョッキーがしゃべるという形式は、圧倒的な人気となり、またたくまに人びとに受け入れられました。その「千の丘ラジオ」から、分断と対立を煽るメッセージが送り続けられたのです。

「大統領を暗殺したのは、〖ツチ族〗過激派だ!」「隣の〖ツチ族〗に、気をつけろ!」ラジオは、怒りと不安を煽り続けます。実は「千の丘ラジオ」は、軍の上層部や一部の富裕層の、【フツ族】過激派が作った局でした。

「奴らは、人殺しのゴキブリだ!」「今こそ、キミたちの勇気を示す時だ!ナタやカマを持って立ち上がれ!」「オレたちの強さを見せてやれ!」勇ましい言葉は熱狂を呼び、あっという間にルワンダ全国に広まりました。各村に自警組織が作られ、「自分たちを守るために〖ツチ族〗を殺す」という大義が叫ばれる。憎しみや蔑みもまた伝染し、顔見知りだった隣人を、親戚や友人を襲い、殺し始める。気がつけば、目を覆いたくなるような光景が広がっていました。身分証明書に、〖ツチ族〗と示されていた。たったその違いだけで。その数は、大統領暗殺から一週間で25万人にまで膨れ上がりました。

そして「オレたちの中に、敵をかばう者がいる。裏切り者は、同じ運命をたどる」という言葉も飛び交い、家族や親戚をかばうことも許されない空気が作り出されます。フランソワは、周囲から「子どもたちを殺せ!殺さないと、お前は裏切り者だ!」と追い詰められ、そして甥や姪を殺すことになったのです。






 

対立の始まりは、ベルギーの植民地政策による一本の分断線でした。そのラインが、共存していた二つの民族を分け、対立を生みました。そしてのちに、身分証明書に民族を記載するという法律で、もう一本の「我々」と「彼ら」を分ける線が引かれました。これまで普通に暮らしてきた人たちが、このラインに沿って、ある日を境に隣人を殺し始めたのです。

大量虐殺の防止を目的とするNPOジェノサイド・ウォッチの創設者であるグレゴリー・スタントンは、人々が虐殺に手を染めるまでの過程を八段階で説明しています。

① 人々を「我々」と「彼ら」に二分する

② 「我々」と「彼ら」に「こちら側」「あちら側」に相当する名前をつける

③ 「彼ら」を人間ではない存在(例えば動物や害虫、病気など)に位置付ける

④ 自分たちを組織化する。

⑤ 「我々」と「彼ら」の間の交わりを断つ

⑥ 攻撃に備える

⑦ 「彼ら」を絶滅させる

⑧ 証拠を隠滅して事実を否定する

しかし考えてみれば、①から③までは、私たちも日常的に行っているのではないですか。それらの積み重ねが、ある時ふとしたきっかけで、暴走していくのです。

これが遠いアフリカの国で起こった、私たちとは関係のない話であれば良いのですが、どうもそうはいかないようです。ナチスドイツのホロコースト、カンボジアのクメールルージュ(ポル・ポト派)、旧ユーゴ内戦の民族浄化。日本でも、関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺がありました。つまり、人類の歴史を振り返れば、同じような事件はいくらでも起こっているのです。

そもそも『時をかけるテレビ』が、なぜこの番組を選び、放送したのか。それは、インターネットやSNSが普及したことで、フェイクニュースやヘイトスピーチがまたたくまに広がる時代。分断が強まり、過激で勇ましい言葉で対立が煽られていく今だからこそ、この番組に学ばなくてはならないという危機感からではないでしょうか。事実2021年、アメリカ大統領選挙の結果を不服として、連邦議会議事堂が襲撃された事件は、陰謀論に煽られた影響が指摘されています。今年起こった能登半島の地震の際には「外国系の盗賊団が集結中だ」という、まさに不安や分断を煽るデマがSNSで広がりました。






人は優しいままに、残酷になれる


 オウム真理教のドキュメンタリー「A」「A2」で知られる映画監督で作家の森達也さんは、撮影中あることに気がつきます。それは、撮影時に会ったオウム信者も、事件を起こした死刑囚たちも、みんな礼儀正しく、善良で心優しい人たちだったということです。でも彼らが多くの人の殺害に加担したことも確かなこと。だから森さんは、彼らと語り合いながら混乱します。そして、この矛盾に苦悩し煩悶しながら、ひとつの結論を見出しました。

 

アウシュビッツ強制収容所の所長を務めていたルドルフ・ヘスは、子煩悩で妻思いの男だった。本国ドイツから家族を呼び寄せて、収容所敷地内で仲睦まじく暮らしていた。空いた時間には子どもたちに勉強を教え、庭では妻と家庭菜園をやっていた。

しかし、そこから徒歩で数分の場所にはガス室があって、多くのユダヤ人が毎日悶えながら死んでいった。良き夫であり良き父であるヘスは、ユダヤ人の側から見れば、これ以上ないほどに邪悪な悪魔でありモンスターだ。(『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか?』森達也)

 

これは森さんがたどり着いた結論を示す、エピソードの一つです。家庭思いで仕事熱心なルドルフ・ヘスは、その誠実さのゆえにユダヤ人を殺害するのです。そこには「我々」と「彼ら」の明確なラインがありました。ラインに、そして線引きをした組織に忠実な故にヘスは、ユダヤ人を処分されるべき存在として認識するようになったのです。

その時彼は、「私」という一人の人間としてではなく、「我々」というナチスの価値観や立場を優先していました。「私」という主語ではなく、「我々」として考えた。だから組織の論理が優先され、「彼ら」の処分に、ためらいがなくなってしまったのです。心優しきままに。

まさに、優しい「人」が、「人々」になることで残酷になる。それが森さんの結論です。

 

オウムの信者のほとんどが善良で穏やかで純粋であるように、ナチスドイツもイラクのバース党幹部も北朝鮮の特殊工作員たちも、きっと皆、同じように善良で優しい人たちなのだと僕は確信しているということだ。でもそんな人たちが組織を作ったとき、何かが停止して何かが暴走する。その結果、優しく穏やかなままで彼らは限りなく残虐になれるのだ。でもこれは彼らだけの問題じゃない。共同体に帰属しないことには生きてゆけない人類が、宿命的に内在しているリスクなのだと思っている。つまり僕らにもそのリスクはある(『世界はもっと豊かだし人は優しい』森達也)

 

こうして全体の一部となりながら、いつのまにか誰もが声高になる。虐殺や戦争はこうして起きる。でも渦中では、主語がないからこそ実感は薄い。誰もが終わってから呆然と天を仰ぐ。振り返ってごらん。世界はそんな歴史を繰り返している(『世界が完全に思考停止する前に』森達也)

 

それは、不祥事を起こした人をSNSやネットで叩く「炎上」行為も、虐めや差別も同様なのでしょう。その時の主語は、あくまでもその場の空気です。相手を、温もりや手触りのある生身の身体を持った人間として認識していれば、そこまで残酷にはなれません。「私」を主語にして考えれば、言動にはもっと責任が伴います。

「彼ら」と線引きし、「我々」という主語で語るからこそ、冷酷で残酷になれる。そしてひとつのきっかけさえあれば、誰もがその立場に成り得るのです。いやその可能性は、ネットやSNSの普及で、ますます高まっています。親鸞聖人が語られた「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(『歎異抄』十三条)という言葉が、リアルに響いてきます。

 





ともに凡夫


 「仲間づくりは仲間外れづくり」という言葉を聞いたことがあります。私たちは仲間を作らなくては生きていけません。しかし、そこには同時に「我々」と「彼ら」という線が引かれ、必ず仲間外れが生まれてしまう。でもそのラインはあくまでも、生きやすくするための仮のものだったはず。それをいつしか絶対視してしまうことが、分断や対立へとつながるのでしょう。

特に宗教は、篤信であるほどにそのラインを絶対視する傾向が強くなります。でも、阿弥陀様は本来「十方衆生(すべての生きとし生けるいのち)」と呼びかけられる仏様です。仏教の基本的な考え方である「縁起」は、無量無数の因と縁によって、私が成り立っているというもの。そして仏様の智慧は、ものごとを線引きせずに、ありのままに見るという「無分別智」といわれます。つまり悟りの世界には、本来線引きはありません。ラインは、迷いの存在である凡夫が仮に引いたもの。その自覚を忘れる時にラインは絶対視され、悲劇は起こるのでしょう。

 

以前、森達也さんとお会いした時、「この言葉知ってる?」と、たずねられました。それは、「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ」という聖徳太子の『憲法十七条』の一節でした。

「よく知っていますよ。親鸞聖人は、聖徳太子を「日本のお釈迦様」と仰がれ、とても尊敬されていましたから」と答えると、「そうなの。この言葉って、今こそとても大切にしないといけないよね」と言われたのです。



 私たちはいつも正しいわけでもないし、相手はいつも間違っているわけではありません。「我々」「彼ら」を超えた「ともに凡夫」という事実を、悟りの世界との出遇いを通して知らされるからこそ、立ち止まり、語り合う歩みが始まるのでしょう。生身の身体を持った、温もりと手触りのある「私」と「あなた」として。そんな営みが今こそ求められていると、私も深くうなずかされました。■

 

※     日本アカデミー賞にもノミネートされた森達也監督の映画『福田村事件』は、分断が不安に煽られることで対立へと変わり、「私」という主語を見失った「我々」が、優しいままに残酷になっていく姿が描かれています。4月よりレンタル開始。U-NEXTでも配信されています。