2024(令和6)年7月


 いよいよ夏休み!しかし楽しい日々は、あっという間に終わります。「明日からやろう」と先のばしをしているうちに、気がつけば残されたわずかな日数と大量の宿題…。こんな経験、誰しもあるのではないでしょうか。

それは、子ども時代に限りません。何より、今は娯楽の多い時代です。スマホゲームのCMには、やたらと「暇つぶしに最高!」とありますが、暇をつぶしているうちに時が過ぎ、気がつけば人生全部が暇つぶしで終わってしまったなら…、あまりにも寂しすぎます。

同時にそれは、日々の忙しさに追われている私の生き方にも、言えるのではないかと思うのです。「忙」という漢字は、「忄(りっしんべん)」と「亡くす」という字で構成されています。「忄」とは「心」の字形から転じた偏ですから、まさに「心を亡くす」ことに通じます。また、「心」を「亡」の下につけると、「忘」という字になります。まさに、忙しさのあまり心を亡くし、大切なことを忘れながら、日々を送っている私を表しているかのようです。日々の出会いを大切にしているのか。ささやかなことに驚き、小さな喜びに感動し、いただいているご恩に感謝する。そんな、人生を深く味わい豊かにしていく営みを、後回しにしてはいないかと。






何より私たちは、夏休みの宿題よりも大きな、人生の宿題を抱えています。それが老病死です。仏法では、地位や名誉や財産をどんなに積み重ねても、いずれは手放さなくてはならないと教えます。なぜなら、必ず老い、病み、死んでいかなくてはならないから。厳しいけれども、それが私たちの現実なのだと。

その現実を前提にした上で、日々の生活を営んでいるかと問われると、どうなのでしょうか。誰もが老い病むことは、頭ではわかっているのです。ところが巷では、「いつまでも若々しく」「やっぱり健康が一番」という言葉ばかりが飛び交っています。それらは裏返せば、「老いたら終わり」「病気になったらダメ」と将来の自分を蔑む言葉なのに。年老いても、病気になっても、私にとってはかけがえのない大切な人生の一日であるはず。にもかかわらず若さや健康に執着し、大切な一日を空しいものにする。そんな生き方をしてはいないでしょうか。

そして、私たちには死という大きな大きな問題があるのです。近頃は、「人間死んだら終わり」という人が増えましたが、それは「死んだら終わるようなものしか、追いかけていない私である」と宣言しているようなもの。これもまた、空しさを感じます。

また、「どうせ死ぬんだから、好きなことをやろう」という人もいます。これもまた乱暴すぎる話です。そもそも「どうせ」という言葉には、やぶれかぶれや自暴自棄な気持ち、「どうにでもなれ」と望みを失った感情が含まれています。それは結局、死というものにきちんと向き合えていない態度に思えるのですが。

 

詩人の相田みつをさんに「そのうち」という詩があります。

 

 そのうち お金がたまったら そのうち 家でも建てたら

 そのうち 子供から手が放れたら そのうち 仕事が落ちついたら

 そのうち 時間のゆとりができたら

 そのうち…そのうち…そのうち… と、

 できない理由をくりかえしているうちに 結局は何もやらなかった

 空しい人生の幕がおりて 顔の上に 淋しい墓標が立つ

 そのうちそのうち 日が暮れる いまきたこの道かえれない

 

「そのうちそのうち」と、人生の宿題から目を逸らした生き方は、「空しい人生」になりかねません。老い、病み、死んでいく現実を抱えた私の人生を、それでも尊いものとしていただくことができるにはどうすれば良いのか。実は、そんな人生の宿題に向き合ってきた人たちの歩みが、深く刻み込まれた場所があります。それがお寺です。






 

生涯を学校教育に捧げられた、東井義雄という先生がおられます。同時に浄土真宗のお寺の住職で、阿弥陀様のお心を味わいながら、阿弥陀様と共に人生を歩まれた方でした。その東井先生には、苦難の時期がありました。将来を嘱望された息子さんが突然意識不明となられ、またご自分も癌にかかられたのです。執筆も多く、名前の知られた方でしたから、様々な人たちから「罰が当たったのだ。私のご宗旨に変わられてはどうか」「御祈祷されては」「あなたの因縁を見てもらっては」とアドバイスが寄せられました。その時先生は、すべてのアドバイスを丁寧にお断りされ、このように言われたそうです。


「如来さまは/私たちに「生きてよし、死してよし、どことてもみ手のまんなか」
 の世界を、お恵みくださるのです」(『仏の声を聞く』東井義雄)

この言葉、凄くないですか。私は、シビれました。人生の苦難の中で、その事実を受け容れ、語られた言葉です。老病死と向き合い、生と向き合いながら、人生を尊いものとして歩める道がここにある。その確かさが、この一言に込められているようで、本当に感動しました。

そんな先人たちの歩みを学び、人生の宿題と向き合う場として、お寺があるのです。

 

「世界にお布施を」を合言葉に、宗派を超えた仏教僧侶が集まり、世界の平和と人権に関わる問題に取り組む国際協力NGO「アーユス」という団体が、東京にあります。その事務所は、有名な庭園の向い。そこへの行き帰りの人たちに、自由に持っていってもらえるようにと、パンフレットや冊子が事務所の外に置いてあります。

ある日のこと。男女四人位のグループが冊子を手に取り、話している声が事務所の中に聞こえてきました。

「えーっ何これ、『フリースタイルの僧侶たち』だって」

「へー、そんなのあるんだね、一部もらってく」

「うん、ちょうだい」

それを手にし、特集記事を見て

「うわっ何これ、『お寺に行こう』だって!」

「あはは、やだよー、やだやだ、お寺に行こうなんて」

と冊子をラックに戻して立ち去って行きました。その笑っていた男女はいずれも間違いなく、七十歳を超えていたそうです…。

「そのうちそのうち」と言いながら、一体いつになったら向き合うのやら。いや、その人たちを笑っているのではないのです。私もお寺に生まれて住職になってなかったら、きっと同じようなもの。そんな私であることを気づかされ、そんな私のためにこそ阿弥陀様ははたらいてくださっているのだと、教えられ、育てられているのです。

お寺って、やっぱり凄い場所だと思います。ぜひ、誘い合わせてお参りください。人生の宿題を解決するためにも。■