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| 2025(令和7)年11月 | |||
私のようなオジさんには理解できないのですが、近頃はSNSなるものに「どこへ行った」「何を食べた」「今、何してる」と写真に撮り、公開することが当たり前なのだそうです。 娘の友人も、普通にしていますし、「今さら何を言ってるのか」とバカにされそうなほど、一般化しているようです。でも個人情報を過剰に隠し、プライベートに踏み込まれることを嫌う人が多い時代に、一方では、知らない誰かにプライベートを公開するってどういうこと?もちろん、見せ方に匙加減はあるのでしょうが、なぜそこまで?オジさんには理解できないと、常々思ってきたわけです。 一説によると、これらは「承認欲求」といわれる行為なのだとか。自分の行動や意見を、「いいね!」と認めてもらいたい。たくさんの人に、共感されたい。注目されて自慢したい。それが「承認欲求」なるもの。なるほど、そういう気持ちなら、私にも少なからずあります。 ただ、仲間内でやるならまだしも、ここまでしないといけないのかなぁとも思うのです。「いいね!」を増やすために、他人の目を気にし、ウケを狙い、迷惑行為や過激な言動にエスカレートすることもあるわけで。何やら、小さな子どもが「見て見て!」としつこく繰り返しているようだ、というのは言い過ぎでしょうか。
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小さな子どもには、自分の行為を親や身近な人に、「見て見て!」とアピールする時期があります。実はこの「見て見てアピール」の理由も、「承認欲求」なのだそうです。誰もが、自分が頑張ったことや、できていることを認められ、ほめられて、成長していく。やはり私たちは、他者から認められることによって、自分を確立していく生き物なのでしょう。 但し、このアピールがしつこい場合には、また別の理由があるようです。それが「不安」や「寂しさ」です。メディアでも活躍中のカリスマ保育士てぃ先生は、「パパ・ママが忙しいとか、下の子に手がかかって自分に対する愛情が確認できないといったとき、その不安や寂しさから『見て見て』が続くパターンがある」と指摘しています。 ならば、SNSの過度な承認アピールも、実は、不安や寂しさがその理由にあるのではないか。しかも、かなり深刻な問題を抱えているのでは。私はそう睨んでいるのです。 |
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| 一旦、社会の仕組みやルールが作り変えられてしまうと、それ以前の状態に戻るのはかなり難しいことです。 しかし、「聖なるもの=阿弥陀さま」に立ち返ることは、いつ、どのような状況でも可能です。阿弥陀さまは、「大悲無倦常照我」(『正信偈』)、私たちがどんなに忘れていても、背いても、倦むことも無く、私を照らし、待ち続けてくださっている仏さまなのですから。 ちなみに、阿弥陀さまと出遇うとは、束縛の中に身を置くものではありません。妄信的に信じることでも、思い込むことでもないのです。私は、これを「等身大の自分に帰る」ことだと考えています。 弱さや愚かさを抱えた私が、そのまま認められ、受け容れられる。 つまり、「承認」が無条件に与えられるのが阿弥陀さまの世界です。 だから人と比べることも、他者のウケを気にすることも、「見て見てアピール」も必要ない。自分を大きく見せることも要らないし、弱さを隠さなくてもいい。自分は自分でしかないことにうなずき、素直に頭が下がり、過ちや愚かさにも安心して向き合える。 つまり、阿弥陀さまと出遇うことで、「等身大の自分に帰る」ことができるのです。 とはいえ、私たちは社会の中を生きているわけですから、その影響から「不安」や「寂しさ」を感じることもあるでしょう。フラフラすることだってあります。 しかし、立ち戻る場所、拠り所があるからこそ、我に返ることもできる。 誰に何と言われようと、「阿弥陀さまが、知っていてくださっていたら、よいではないか」と、自分の人生を確かに歩むことができる。このような道が、お寺という場を通して、私たちには伝えられているのです。 こんな歩みをする人と出会ったら、人生は変わります。 環境は変わらなくとも、世界との向き合い方は確かに変わります。 私たちには、無条件の承認を与えてくださり、等身大の自分に帰ることができる「聖なる」世界が用意されているのです。 せめてこの歴史を、このような生き方があることを、過酷な状況にある次の世代に伝えなければと、強く思っています。細やかではあってもこの一歩こそが、人生を確かなものとしていくものだとも思うのです。■ |
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