2025(令和7)年3月


 

 ご存知でしょうか。あなたの見ているウェブサイトと、私が見ているサイト。同じものであるはずなのに、大きく違っていることを。

 インターネットの検索サイトには、利用者の検索履歴やクリック履歴をアルゴリズムという計算式で分析し、興味や好みを把握して、それに合わせた情報が優先的に表示される機能があります。欲しい商品について調べると、おすすめの商品広告が。興味あるアーティストを検索すれば、その関連情報が。ある政治的立場のニュース記事を頻繁に読めば、同じ立場からの記事が優先的に表示されます。ちなみに私が見ているニュースサイトは、カープの情報ばかり。つまり同じサイトを見ていても、気づけば人とは違うものへとカスタマイズされているのです。
 
 膨大な情報が溢れるネットの世界で、自分に必要なものを見つけ出すのは至難の業。ならば、欲しい情報が優先的に表示されるのは、とても便利で良いことなのでは…と思いきや、近年この機能についての危険性が叫ばれているのです。

 なぜなら、次第に自分の興味や好みの情報ばかりに囲まれることになる。そうして、違う価値観に触れることが少なくなり、視野は狭まり、考えは偏り、他者への想像力や共感力が育たなくなる。「バブル(泡)」に包まれたように孤立した状況になり、自分が見ている世界がすべてだと思い込んでしまう。これを「フィルターバブル現象」といわれています。それが偏見、不寛容、差別へとつながり、社会に断絶を生んでいるとも指摘されるのです。


 しかも、この現象が厄介なのは、本人に自覚がないことなのです。人は誰しも、自分の興味や好みに流されるし、自分を正当化したいもの。この心のクセ(これを「確証バイアス」というそうです)がネットを通して、知らず知らずに強化されていくわけです。
 ちなみに、このクセが強化された人の特徴として、次のようなものがあげられます。
   ◇ 自分が正しいと強く思っていて、第一印象で判断する。
   ◇ 同じ意見の人の話にしか、耳を傾けない。
   ◇ 都合の悪い情報を軽視する。
   ◇ 失敗したときに、他人や外部環境に原因を求める「他責思考」になる。

 こんな人が側にいる状況を想像してみてください。違う立場や考え方があることが、想像できない。融通が効かない。自分の過ちを認めない。しかも、人には強く当たる。こんな人が側にいたらと思うと、辛くないですか。想像するだに怖ろしい。
 でも、もっと辛いのは、私にもそういうところがあると、思い当たることなのです。ネットに依存している影響なのか、それとも本来の人間性なのでしょうか。ただ、私にも当てはまりうると自覚しておくこと、折に触れ思い起こすことが、とても重要だと思っています。そしてそれは、この心のクセへの対処法として、最初にあげられる取り組みでもあるのです。




 


 「自分の現在地が明らかになった。わからないから、迷ってたんだ」という言葉があります。
今の状況を確認せずに、わかっていると思い込み突き進むことは、まさに迷いの姿そのもの。でも、現在地が分かると、進むべき方向も、やるべきことも明らかになる。これは、もう迷いの状況ではありません。実はこれ、河合塾という予備校のCMのフレーズなのですが、まさに私たちの人生にも当てはまるのではないでしょうか。

 仏教では、「自己の見解にとらわれて離れないこと。自己を中心と考えるとらわれ」を我執と言います。自分の正しさに執着することが、迷いの原因なのだと。わかっていると思い込み、頑なに小さな世界に閉じこもり、他者を、そして自己を決めつける生き方こそが、一番深い闇なのだと。

 にもかかわらず、私たちはわからないことを恥ずかしく思い、賢さ、正しさを追い求めているようです。しかし、本当に求めるべきは、素直に心を開き、無知で愚かな自分の現在地を認め、世界の豊かさ、深さ、複雑さと謙虚に向き合うことなのでしょう。









 真宗僧侶の松本梶丸先生は、長年仏法を聴聞し、お念仏と共に生きられた方々のお話を聞き取り、紹介されておられる方です。その松本先生の本に、こんなお話がありました。


 「昨日、うちの嫁から教えられてね」
 あるおばあさんが嬉しそうな顔で、こう切り出されたのです。
 その家の大事な品物が見当たらない。その品をおばあさんは「どこかに片づけた」と言い張り、お嫁さんは「ばあちゃんが、もういらないものだと捨てた」と主張する。そんなお嫁さんの言葉に、カッとなったおばあさんは「お前はなんという強情で頑固もんや」と一喝したというのです。それに対して間髪入れず、お嫁さんが言い返しました。
 「同じやわい」と。

 その言葉に教えられたというのです。「同じやわい」と言われたとき、強情で頑固な自分であったと目が覚めた。それが嬉しかったと。そして松本先生は、これこそ聴聞の賜物であるといわれるのです。


 念仏詩人と呼ばれた榎本栄一さんには、このような言葉があります。
「人の言うことを ナルホドソウカとうなづけたら そこには小さな花が咲くようだ」
「ナルホドソウカと頷かしめるものが、阿弥陀さまのはたらきである。南無阿弥陀仏である」

 私たちは、素直に「ナルホドソウカ」と、なかなか頷けませんよね。耳の痛い言葉は特に。しかし、仏法を聞き続けられたおばあさんは、お嫁さんの言葉に阿弥陀さまのはたらきを感じられたのでしょう。これは、凄いことですよ。我に返り、目が覚める。それが喜びと共に行われる。「ナルホドソウカ」と頷かしめるはたらきと出遇われたおばあさんの歩みが、私の心にも小さな花を咲かせてくださるのです。


 



 

「これが私の現在地なんだ」「この事実を、受け容れるしかない」「ここからしか、何も始まらない」そう我に返り、現在地に立ち返る。それは、フィルターバブル現象が起きるほど、心のクセが強化される現代社会において、とても困難なことです。


 しかし私たちには、「ナルホドソウカ」と頷かしめるはたらきが届けられているのです。素直に、自分をさらけ出せる場所が用意されている。そこに私たちの思いを超えた豊かな世界があることを、先輩方の後ろ姿を通して、教えられています。■