2025(令和7)年5月



 
皆さんは、どのような言葉をかけられたら、やる気が湧いてきますか?
 周りの人から、やる気を引き出すには、どんな言葉をかけますか?

 「馬の鼻先に人参をぶら下げる」という言葉があります。鼻先に人参をぶら下げられた馬は、人参に食いつこうとして全力で前に進もうとする。そこから、褒美や報酬をちらつかせて人を奮起させることの喩えにも用いられています。
 このように、褒美や報酬で人のやる気を引き出す。これが、一般的に考えがちな方法ではないでしょうか。ところがこれは、あくまでも人参が欲しい馬に限ってのもの。なぜなら、お腹いっぱいの馬もいれば、人参では走る気が起こらない馬もいるからです。人間も同様に、誰もが褒美や報酬をちらつかせれば、動くとは限りません。

 私は、地域のいろんな役職をしてきました。その経験から、「役職を引き受ける人が、言われて一番嫌がる言葉」を知りました。それは、「あの人は、好きでやっているから」「どうせ、手当を貰っているんでしょ」という言葉です。いつもは穏やかな方が、そんな言葉をかけられて烈火の如く怒られた場面を、何度も目の当たりにしてきました。

 地域の役を引き受けられる方は、大抵「先輩もしてこられたから」「私もお世話になったから」と言われます。大切なことを受け継いでいるという、責任感が感じられます。それを「好きだから」「お金欲しさでしょ」と決めつけられると、「私を、そんな人間だと思っているのか!」と尊厳を踏みにじられた気がするのでしょう。私も、その気持ちよくわかります。

 人は「報酬だけで動く」という単純なものではないのです。そして、報酬目当てだと決めつけられることで、やる気を失う人もいるのです。「人間は、人参をぶら下げれば動く」と短絡的に考えてしまう人は、「自分がそうだから、人もそう」という、自分のモノサシを振り回しているだけなのではないでしょうか。




 


  「インテリジェンス」という言葉があります。日本語で「知性」と訳されるこの言葉の語源は、ラテン語で「~の間に」を表す「inter-」と「読み取る」を意味する「legō」の組み合わせから来ているのだそうです。ならば「知性」とは、行間にあるもの、見えなくともそこにある思いやはたらきを読み取る力のことだと言っても良いでしょう。

 つまり同じ景色を見ても、同じ人と出会っても、世界を深く読み取る力がある人と、浅くしか見ることができない人では、見え方は違うのです。そして知性とは、知識を増やすことでも、単にキャリアを重ねることでもなく、行間にたゆたうものをすくい取り、読み解く力なのだと教えられるのです。
 何より、自分のモノサシで見えるものだけを追いかけるなら、そのモノサシ以上の広々とした世界に気づくことはできません。







 そもそも仏教では、自分のモノサシ、それによって確立した枠組みにこだわることを「執着」と呼びます。その執着が強くなるほど、苦もまた強くなると考えます。

 例えば、清潔な空間を作ろうと執着するほど、今まで何とも思わなかった少しの汚れが気になってくる。快適な環境を作ろうとするほどに、近所の子どもの声がうるさく感じるようになる。
 タイパ(時短)にこだわることで、待つことが耐えられなくなり、若さや元気に執着することで、老いた自分、病気になった自分を惨めと感じる。
 頑なになるほど反対意見を否定し、都合の悪いことから目を逸らし、自分の人生を狭めてしまう。自分の枠組みやモノサシが強くなるほど、寛容さは失われ、考えは硬直化してしまいます。

 その非寛容さは、他者へ向けられるだけではありません。自分にも向けられていきます。「こう、あらねばならない」という枠組みに執着すると、「そうは生きられない」という現実に直面したとき、「こんな自分はダメだ」と自分自身を強く苦しめていくのです。


 自分の枠組みやモノサシを、問うてみませんか。「お金がすべて」という枠組みを問うてみると、そこにある思いやかけがえのなさが見えてくるかもしれません。「若さや健康が一番」というモノサシを問うてみれば、老いや病いから、大切なことに気づかされるかもしれません。これまでのモノサシを手放した時、世界は広がり、新たな出会いが開かれていくのです。

 世界は、自分のモノサシで測るものではありません。自分のモノサシを問うことで、これまでの価値観が揺さぶられ、目の前の霧が晴れ、頭の中の風通しが良くなっていく。まさに仏教とは、私のモノサシを問うてくださる教えなのです。無量(量ることができない)のはたらきに支えられている事実を、知らせてくださる導きでもあるのです。■