2025(令和7)年6月



 
苔が大好きです。あの、日当たりの悪い岩や木に生えている苔が。特に杉苔という種類が大好きで、庭を杉苔でいっぱいにしたいと、山から取ってきたり、ご門徒や知り合いのお寺から譲ってもらったりと、試行錯誤しました。苔寺に憧れたのです。結局、環境が合わずに断念しましたが、苔が好きな気持ちに変わりはありません。

 苔に興味が出ると、世界が変わります。今まで気にもとめなかったのに、「こんなところにも苔が」「これは、何という種類の苔なんだろう」と、色んなところに目が行くようになりました。山へ行き、杉苔がたくさん生えている場所を見つけると、大興奮!これまで何とも思わなかったのに、今では宝の山に見えるのです。
 古代ローマの政治家ユリウス・カエサルは、「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」と言ったとか。確かに私たちは、自分の見たいもの、興味のあるものしか目に入らないようです。

 よく「田舎には何にもない」という言い方をする人がいますが、確かに田舎には、都会のような娯楽施設やショッピングモールはありませんし、刺激的な欲望を提供する場所もありません。でも、自分の興味が変われば、景色は変わります。刺激的な娯楽だけが、世界のすべてではないのです。
 ならば、刺激的なものばかり追いかけていると、豊かだけれども、細やかなものが目に入らなくなるのかもしれません。穏やかな日常にあるかけがえのなさ、尊さに気づくこともなく、素通りしてしまうのではないでしょうか。

 ちなみに気づきとは、私が「気づく」という言い方もしますが、「気づきを得る」「気づかされる」とも言い表します。私は、「得る」「気づかされる」と言った方が、気づきの本質を表しているように思います。なぜなら、気づきは外からやってくるものだからです。私が気づくよりも前から、すでに私のそばにあるものに、呼びかけられるように目覚めていく。目に入らなかったものが、飛び込んでくる。自分が、ようやくその魅力に気づけるほどに育てられていたことを知らされる。
 自分が見ている世界が、現実の全てだと思っているうちは、気づきとは出会えません。世界は私が思うより、もっと深く、大きく、豊かだ。それを、小さく決めつけていた自分の未熟さ、愚かさを受け容れるこちらの準備が整ったとき、気づきは外からやってくるのでしょう。




 


 作家の芥川龍之介がお経をモデルにして書いた、『尼提』という短編小説があります。
尼提とは、人の名前です。お釈迦さまの時代に、インドの舎衛国という国に住んでいました。尼提は当時、卑しいと蔑まれていた身分の人で、舎衛国で出る糞尿を集めては、捨てに行く仕事をしています。

 ある時、尼提が糞尿を集めて運んでいたところ、前方よりお釈迦さまが歩んでこられるのを目にしました。彼は自分が卑しい身分であること、汚い糞尿を運ぶ仕事をしていることを恥じ、お釈迦さまの目に触れぬようにと横道に入ります。
 ところが避けたはずのお釈迦さまが、なぜか前から近づいてこられるのです。あわてて道を変えるのですが、やはりそこにもお釈迦さまが。七回道を変えて七回とも、行く先にお釈迦さまがおられるのです。

 慌てふためいた尼提は、持っていた器を落とし、割ってしまいました。辺り一面、ウンコやおしっこが散らばり、尼提も糞尿まみれです。そこに歩み寄られたお釈迦さまは、「尼提よ。私のように出家せぬか」と出家をすすめられました。
 「私は賤しいものでございます。到底お釈迦様のお弟子たちなどと、御一緒にいることは出来ません」そう断る尼提にお釈迦さまは、「身分上下を選ばず分けない仏法のはたらきは、たとえば猛々しい火があらゆるものを、選ばす焼き尽くことと変わりがない」と言われ、尼提はお釈迦様のお弟子になった。そんなお話です。

 この短編小説は、「呼びかけ」「素通り」「気づき」について、よく表しているように思うのです。尼堤は、自ら法を求めようとは一度もしませんでした。自分を卑しい者だと決めつけて素通りし、それどころかお釈迦さまを避け続たのです。求められたのは、どこまでもお釈迦さまでした。お釈迦さまは、ずっと前から尼提に呼びかけておられたのです。「尼提よ、あなたの尊さに気づきなさい」と。そんなお釈迦さまの呼びかけを素通りするどころか、避けていた尼堤。しかし、とうとうその言葉にうなずき、そのお心に気づき、仏弟子となったのでした。








 また、この尼提とお釈迦さまの関係は、私と阿弥陀さまの関係に重なるのです。親鸞聖人は、「阿弥陀さまは、この私を呼び続けておられる」と教えてくださいました。「あなたの迷いに気づいてくれよ」「あなたの尊さに目覚めてくれよ」「私はいつも、あなたのそばにいるよ」と。その呼び声が、南無阿弥陀仏のお念仏なのだと。親鸞聖人は、そして私たちの先輩方は、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える我が声に、阿弥陀さまの呼び声を聞いていかれたのです。

 では、私たちは「南無阿弥陀仏」と称えながら、それを阿弥陀さまからの呼び声と受け止めているでしょうか。受け止めるどころか、素通りしているのでは。そんな私たちを追いかけてでも救わずにはおれないと、はたらいてくださっている。阿弥陀さまとはそんな仏さまなのだということも、親鸞聖人は示されているのです。
 私は常に、呼びかけられていたのです。私はすでに、尊い願いをかけられていた。そう気づかされた時、世界の深さ、大きさ、豊かさに目覚めさせられる。これまでの未熟さに、素直に頭が下がるのでしょう。

 ただ、親鸞聖人は、こうも教えてくださいました。
「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
    大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」
(『高僧和讃』)
 煩悩で濁った私たちの眼には、阿弥陀さまの光(はたらき)は見えないけれども、この私を思ってくださる阿弥陀さまのお心は、厭きることもなく、倦むこともなく、常に私を照らし続けられている。私が気づこうが気づくまいが、阿弥陀さまは呼びかけ続けられていることに、変わりはないのだと。

 このような世界に気づかされると、また世界は大きく変わって見えてきます。ここまで私は、阿弥陀さまから思われているのだと知らされた時、素通りしていたこれまでの生き方が、恥ずかしく思えてくるのです。■